(4)解離と精神分析 -ダネル・スターンの理論
解離の問題は現在の精神分析理論ではどのように扱われているのであろうか?従来は解離の議論は精神分析の分野ではほとんど論じられてこなかった。しかし米国においては解離がエナクトメントの概念で論じられることが多くなってきている。それはどのような意味においてだろうか。ここでDonnel
B. Stern, Ph.D.という分析家の論文 The Eye Sees Itself:
Dissociation, Enactment, and the Achievement
of Conflict ((2004). Contemporary Psychoanalysis, 40:197-237)を参考にしたい。本書では彼の名前を「スターン」と日本語で表記するが、わが国にはすでに丸田先生、小此木先生の尽力により知られるようになったダニエル・スターンがいるので、混同してはならない。(ファーストネームのイニシャルをつけると、両方ともD.スターンとなってしまうので紛らわしいが。)
スターンは、精神分析の新しい流れの一つである関係性理論のホープの一人である。彼によれば、精神分析の目的は、洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatedness に変化してきているという。フロイト以来のこれまでの精神分析では、無意識の意識化、そのための解釈による介入一辺倒であったから、私はスターンのこのような主張に精神分析の新しい可能性を感じる。そしてそのスターンが最近頻繁に論じているのが解離の概念である。はたして分析理論の視点から彼が論じる解離とはどのようなものであり、そのような新たな治療可能性を指示してくれるのであろうか?
スターンは、精神分析の新しい流れの一つである関係性理論のホープの一人である。彼によれば、精神分析の目的は、洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatedness に変化してきているという。フロイト以来のこれまでの精神分析では、無意識の意識化、そのための解釈による介入一辺倒であったから、私はスターンのこのような主張に精神分析の新しい可能性を感じる。そしてそのスターンが最近頻繁に論じているのが解離の概念である。はたして分析理論の視点から彼が論じる解離とはどのようなものであり、そのような新たな治療可能性を指示してくれるのであろうか?
まず前提として、スターンはこう述べている。「最近の精神分析の流れの一つは、やはり逆転移の扱いや理解の仕方の再考ということである。」わかりやすく言えば、治療者はどうやって自分のことを理解し、観察できるのか、ということだ。そしてそれは実は容易なことでではない。それは実は「眼は自分を見えるか」というテーマであり、これはこの論文の副題にもなっている。この問題についての意識を触発したのが、レベンソンの 1972年の“Fallacy
of Understanding“という本であるという。ただしここではこの論文には触れないで置く。ちなみにこのレベンソンも関係精神分析の発展の火付け役を果たした重要な精神分析家である。
さてスターンによれば、最近の逆転移についての考え方は、「二者心理学」的になってきたという。すなわち患者と治療者の現在進行形なかかわりのあり方を重視するわけだ。そこでは患者の中で転移が、治療者の中で逆転移が、個別に生じているわけではない。それらはいわば連動して、同時に起きる傾向にある。つまりそれを、転移―逆転移という関係の中で起きてくる一種のパターンとして理解しなくてはならない。そして治療者は、患者が他者と特定の関係性のパターンに陥りやすいという傾向について探っていくことになる。しかしそれはあくまでもその患者さんが「~という問題を持っている」というわけではないという断り書きとともにこの作業を進める。さもないと、患者さんという個別の人間が、そこに孤立した病理を抱えている、という理屈になってしまい、それを言ってしまうと一者心理学に陥ってしまうというわけである、という・・・。
ちなみにここの理屈が読者にとってあまり意味をなさないとしても、私は無理もないと思う。ここには一種の言葉のあやというニュアンスがあるのも確かである。それよりもスターンがこれから進めるであろう議論、すなわち逆転移を知る重要な手立てとしてエナクトメントがある、という主張がどのように展開されるのか、そしてそれが解離の議論とどう結びつくのかに関心を向けよう。
さてスターンによれば、最近の逆転移についての考え方は、「二者心理学」的になってきたという。すなわち患者と治療者の現在進行形なかかわりのあり方を重視するわけだ。そこでは患者の中で転移が、治療者の中で逆転移が、個別に生じているわけではない。それらはいわば連動して、同時に起きる傾向にある。つまりそれを、転移―逆転移という関係の中で起きてくる一種のパターンとして理解しなくてはならない。そして治療者は、患者が他者と特定の関係性のパターンに陥りやすいという傾向について探っていくことになる。しかしそれはあくまでもその患者さんが「~という問題を持っている」というわけではないという断り書きとともにこの作業を進める。さもないと、患者さんという個別の人間が、そこに孤立した病理を抱えている、という理屈になってしまい、それを言ってしまうと一者心理学に陥ってしまうというわけである、という・・・。
ちなみにここの理屈が読者にとってあまり意味をなさないとしても、私は無理もないと思う。ここには一種の言葉のあやというニュアンスがあるのも確かである。それよりもスターンがこれから進めるであろう議論、すなわち逆転移を知る重要な手立てとしてエナクトメントがある、という主張がどのように展開されるのか、そしてそれが解離の議論とどう結びつくのかに関心を向けよう。
スターンはエナクトメントについて次のような理解を示す。そもそもエナクトメントとは、事後的に、つまり起きてしまってからそうとわかるものであり、そこで「あの時は~だった」という形でそこに表現されていた自分の無意識的な葛藤を振り返るというプロセスを意味するが、それはそもそも自己が解離していることを前提としているのだ、というのだ。
スターンは次のように言う。あなたがある時、Aという行動をする。そしてそこに葛藤を感じていないと仮定しよう。それを後になって「あれ、あの時にBもありだったな。なぜBを選ばなかったのだろう?」と思ったとしよう。そしてそこにAはエナクトメントであった可能性があるというのだ。
少し具体的に考えてみよう。たとえばあなたがある時、「あの人(パートナー)とはもう別れたい!」と言ったとする。そしてそのこと自体に特に迷いは感じなかったのだ。そして翌日になり、「あれ、あの人と別れたいなんて、どうして言ったのだろう?今はずっと一緒にいたいと思っているのに。」と思ったとしよう。するとこの「もう別れたい!」という言動がエナクトメントだったというわけであり、その心的内容は解離していた、というわけである。
ここで解離が抑圧という概念とは別種のものと考えられているのは明白であろう。パートナーと別れたいという気持ちを抑圧しているならば、それは「別れたい!」という言葉には容易には表されないであろうし、もし出たとしたら、それはアンビバレンスを含むものであり、「自分はこれを本気で言っているのだろうか?」などの葛藤が言葉と同時に伴うであろう。ところが上の例では、「別れたい」と言った時に葛藤はなかったわけである。ということはその心の内容は解離とは別の形で無意識におさめられていたということになり、スターンはそれを解離と呼ぶわけである。
しかしこの議論はまっとうなようでいて、実は精神分析の文脈ではかなり悩ましい問題を呈してもいる。精神分析では、この種のA、Bという関係はあまり考えられて来なかったのだ。分析的には心はある意味では内部でひと繋がりになっているものだ。それはたとえ意識と無意識との間でもそうである。だから患者の、「昨日はなぜあんなことを言ったのかわかりません」という言い分は、少なくともそのままでは治療者にはすんなり受け取られない。おそらく治療者はこう応えるだろう。「おそらくパートナーと別れたいという言葉が口をついて出てしまったんですね。おそらくそれはあなたが無意識でいつも考えていることではないでしょうか?パートナーと別れるという考えについてあなたが持っているさまざまな葛藤についてここで考えましょう。」
およそ精神分析のトレーニングを積んだ人なら、あるいは精神分析理論を学んでそれを臨床的な考えの中核に据えるような治療者なら、おそらく「パートナーと別れたいとは思いません」という現在の訴えをそのまま額面どおり受け取ることはないだろう。しかしこうなると、「パートナーと別れたい」という気持ちが抑圧されていたのか、解離されていたのかがあいまいになってしまうだろう。
しかしこの議論はまっとうなようでいて、実は精神分析の文脈ではかなり悩ましい問題を呈してもいる。精神分析では、この種のA、Bという関係はあまり考えられて来なかったのだ。分析的には心はある意味では内部でひと繋がりになっているものだ。それはたとえ意識と無意識との間でもそうである。だから患者の、「昨日はなぜあんなことを言ったのかわかりません」という言い分は、少なくともそのままでは治療者にはすんなり受け取られない。おそらく治療者はこう応えるだろう。「おそらくパートナーと別れたいという言葉が口をついて出てしまったんですね。おそらくそれはあなたが無意識でいつも考えていることではないでしょうか?パートナーと別れるという考えについてあなたが持っているさまざまな葛藤についてここで考えましょう。」
およそ精神分析のトレーニングを積んだ人なら、あるいは精神分析理論を学んでそれを臨床的な考えの中核に据えるような治療者なら、おそらく「パートナーと別れたいとは思いません」という現在の訴えをそのまま額面どおり受け取ることはないだろう。しかしこうなると、「パートナーと別れたい」という気持ちが抑圧されていたのか、解離されていたのかがあいまいになってしまうだろう。
実際精神分析にこの解離の概念を持ち込んでいるスターンの筆致は、かなり分析的ではある。「私は自分自身で直接体験することが耐えられないような自分の状態を『演じて』、元の解離する以前の状態に無意識的な影響を及ぼす。」つまりここで無意識的という概念を持ち込み、解離している(はず)のAとBは実は力動的にはつながっていると言うことで、心は一つという精神分析的な前提を保っているようにも見える。
「解離の対人化」としてのエナクトメント
この論文でスターンが示しているのが、解離の対人化
interpersonalization という概念である。これはどういうことだろうか? ある人が、ある心の問題Bを解離しているとする。このBが具体的な他者との関係の中で行動に表されたものがエナクトメントというわけであった。ここで「心の問題」などと言わず、「葛藤となるような問題」などと表現できればもう少しわかりやすくなるが、そう呼ぶことはできない。「葛藤」だとすると、主体はA、Bという二つの心の在り方の間のせめぎあいをある程度意識的に体験することになる。それができないことが解離だからだ。
そしてスターンによれば次のような理屈が成り立つという。「患者により解離された部分は、他者(治療者)に体験される。そして患者の中で明白に体験されたものは、治療者の中で解離される。つまり両者はお互いに部分的にしか体験されていないのである。」
スターンは、この図式を、分析家フィリップ・ブロンバーグ Phillip
Bromberg に由来するものとする。ブロムバーグは最近解離という文脈から分析理論を洗いなおしているアメリカの分析家である。
スターンの説明をもう少し紹介しよう。エナクトメントは内的な葛藤の表現ではない、という。エナクトメントは葛藤の欠如を表している。エナクトメントが生じたときは、むしろ外的な葛藤が強烈になる。そしてエナクトメントが解決するのは、内的な葛藤が成立した時である。それは互いに解離され、二人の人間により担当された二つの心の部分が二人のうちどちらかに内的な葛藤として収まった時に終わるのだという。同様の議論を提唱している人として、ジョーディー・デイビスという分析家があげられる。彼女は以前から外傷関連の議論を扱っているが、彼女の説は、患者の中で解離している体験はエナクトメントして出現し、それを唯一扱うことができるのは、転移―逆転移関係の分析であるという。そしてそれは、フォナギーたちの研究との共通点がある。例のメンタライゼーションの議論でおなじみの、イギリスの分析家ピーター・フォナギー先生だが、彼もエナクトメント、スプリッティング、解離といった議論を縦横無尽に用いて議論しているという。