2014年12月19日金曜日

最新の解離(9)


(6)トラウマ記憶と解離の治療


本章では、解離とトラウマ記憶との関連について論じる。
トラウマ記憶をめぐる知見は、近年大きな進歩を遂げている。それにしたがってこれまでの常識も新しい理解にとってかわられようとしている。そしてそれに基づいた治療法が考案されつつある。
 1990年代までは、トラウマ記憶に関してはある「常識」があった。それは「トラウマ記憶は一生消えない」というものである。私たちは一般に脳で生じたことは容易には変更の仕様がないという先入観を持っており、それは記憶についても同様であった。一般人の大多数が、記憶というのは脳における一種の刻印であり、たとえて言えばレコード盤の上に記録された微細な凹凸のパターンのようなものであって、そこをレコード針によりなぞって再生させることが記憶を甦らせることだという考えを持っていた。 
もっとも記憶のかなりの部分は時間とともに徐々に薄れていく。「消去 Extinction」という現象だ。嫌な出来事も心地よい出来事も、時間の経過とともに徐々に風化する。いわゆる「エビングハウス効果」と呼ばれているものである。ところが一部の記憶、特にトラウマ記憶は例外である。しっかり刻印されてしまい、それが証拠にフラッシュバックの形でかなりの詳細まで再生されてしまう。だからトラウマ記憶は厄介なのだ、と。
 ところが最近このような考え方が徐々に変えられつつある。その発端となった米国マサチューセッツ総合病院のロジャー・ピットマン医師は、トラウマの体験を持った患者にある薬物を投与することで、そのトラウマ記憶が定着するのを抑制することができた、と発表した。2002年のことである。Roger K. Pitman, Kathy M. Sanders, Randall M. Zusman, Anna R. Healy,Farah Cheema, Natasha B. Lasko, Larry Cahill, and Scott P. Orr: Pilot Study of Secondary Prevention of PosttraumaticStress Disorder with Propranolol .Biol.Psychiatry 2002:189-192.
ピットマン医師が使ったのは、内科では日常的に処方されている薬、いわゆるβ(ベータ)ブロッカーのひとつだ。高血圧や頻脈にとてもよく用いられる薬である。これをトラウマを経験した人に用いることで、その後のPTSDの発症を防ごう、という試みである。このβブロッカー使用には、次のような理屈がある。
 私たちの脳は、感情的な高まりを伴うような体験はそれだけ強く覚えこむという性質がある。入試の結果が張り出されるのを、掲示板の前でドキドキしながら待った時のことを忘れた人はあまりいないのではないか?(今ならインターネットで公表されるかもしれないが。)その際はいわゆるストレスホルモンといわれるアドレナリン、ノルエピネフリンなどが血中に放出されている。するとその時にあった出来事をしっかり記憶するようにできている。脳の仕組みとは実にうまく出来ているのだ。
 しかしトラウマ記憶が生じる場合には、この興奮が起きすぎて、記憶が過剰に固定されてしまうという現象が起きている。そこでトラウマが起きた直後にこれらのストレスホルモンを抑える薬であるβブロッカー、例えばインデラールを投与すると、それが記憶の過剰固定を抑えるというわけである。この実験はそれまで臨床家たちが持っていた常識、つまり過去のトラウマ記憶は消すことができないという考えを大きく変えることができる可能性を示唆したことになるのである。
ちなみにピットマン先生とそのグループは10年後にはるかに大量のインデラールを用いてこの研究を追試したが、あまりめぼしい結果は得られなかったことが報告されているElizabeth A. Hoge1, John J. Worthington, John T. Nagurney, Yuchiao Chang, Elaine B. Kay, Christine M.
 Feterowski, Anna R. Katzman, Jared M. Goetz, Maria L. Rosasco1,Natasha B. Lasko, Randall M. Zusman, Mark H. Pollack, Scott. P. Orr and Roger K. PitmanEffect of Acute Posttrauma Propranolol on PTSD Outcome and Physiological Responses During Script-Driven Imagery CNS Neuroscience & Therapeutics Volume 18, Issue 1, pages 21–27, January 2012
 
 PTSDの際に問題となるようなおそれに関する記憶がどのように形成されるかについては、この20年ほどで急速に研究が進んでいる。その発端となった研究の一つが、ドクタ―・ルドゥ(LeDoux)らの1999年に発表された研究だ。 動物に中立的な(つまり特に痛み刺激や快感刺激ではない)刺激(たとえばベルの音)を与えて、そのあとに不快刺激(たとえば肢への電気ショック)を与える。いわゆる典型的な条件刺激だ。その際に脳の扁桃核にタンパク質合成阻害剤(アニソマイシンやサイクロヘキシミドなど)やメッセンジャーRNA阻害剤を注入すると、条件付けが阻害されるというものだ。Bailey DJ, Kim JJ, Sun W, Thompson RF, Helmstetter FJ. 1999. Acquisition of fear conditioning in rats requires the synthesis of mRNA in the amygdala. BehavNeurosci 113: 276–282.
その後同様の実験が行われ、扁桃核の中でも特に外側扁桃核が、この恐怖の条件刺激に決定的な役割を果たしているということが分かったのだ。

きわめて重要な「再固定化」の概念


ルドゥの最初の研究は、情動的な体験についての記憶がいかに形成されるかについてのものだった。しかし一度形成された情動体験の記憶をどのように記憶を書き換えたり、それを忘れるという試みは可能なのだろうか?
これが臨床的には非常に重要になってくる。なぜなら治療者のもとを訪れる人の大半は、自然に薄れることがなく、いつまでもよみがえってくる記憶に悩まされているからである。このテーマの関連で、最近脳科学界をにぎわせているのが、reconsolidation 再固定化という概念だ。(Solid は固体、con-solidateは固化する、固定する。するとreconsolidate 再固定ということになる。)要するにいったん固定されたはずの記憶が、書き直されてまた固定されるという現象だ。すべての治療は、この再固定化を目標とするといっていい。

1968年にこんな画期的な実験があったという。Misanin JR, Miller RR, Lewis DJ. Retrograde amnesia produced by electroconvulsive shock after reactivation of a consolidated memory trace. Science. 1968;160:554. [PubMed]) ミサニンらのグループは、ラットを使って記憶の実験をした。まずラットに籠の中のボトルから水を飲むという動作を覚えさせた。その後にラットに条件付けを行ったという。例の、音を鳴らして足にショックを与えるというものである。そしてそのラットを二群に分けた。この条件付けの際に、ショック直後に頭に電気ショックを与えたグループと与えないグループである。ちなみに頭に電気ショックを与えると一種のてんかん発作のようになり、その直前のことを忘れてしまう。すでに述べたアニソマイシンなどのタンパク合成剤を与えるよりずっと手早くできる。(ただし脳全体にショックを与えるわけであるから、脳のどこの部分の機能を阻害したかということはわからないという欠点はある。)
さてこのような条件付けを二群のラットにしっかり行ったとしよう。当然ながら、電気ショックを与えなかった群のラットは、音を鳴らすとボトルをなめる動作が遅くなるという影響が出た。いつ足にショックが加わるかと思うと気が散ってしまうのだろう。それに比べて電気ショックを与えられたラットは音を聞いても、ショックのことを何も覚えていないから平気でボトルを同じペースでなめ続ける。
 さてこの実験は、次の点が面白かった。電気ショックを与えて条件付けした群のラットに、音を鳴らした後に電気ショックを与えたのである。するとこの条件付けを忘れてしまったということだ。条件付けを施した直後の状態と同じことが起きてしまったのである。
この実験の理解のために、こんな例を考えた。このラットと同じことが人間に起きた場合、たとえばてんかん発作を起こした場合、直前に起きたことは覚えられない。記憶が定着していないからだ。しかし昔の記憶については影響がない。ところがある時てんかんの患者さんが、昔あるところでAさんにばったり出会った時のことを思い出していたとする。その直後にてんかん発作を起こしたとしよう。その結果としてその患者さんは、Aさんとのエピソードを、それが長期記憶としてすでに保存されていたにもかかわらず、「忘れて」しまう可能性があるわけだ。Chapter 11 Memory Reconsolidation or Updating Consolidation? Carlos J. Rodriguez-Ortiz and Federico Bermúdez-Rattoni.  In Neural Plasticity and Memory: From Genes to Brain Imaging (Frontiers in Neuroscience) CRC Press, 2007

このような実験を実際のてんかん発作を持つ人に対して確かめるすべはないかと思うかもしれないが、最近このような報道があった。The Wall Street Journal 20131223
電気けいれん療法、記憶消去実験で成果オランダの神経科学者
オランダの神経科学者らが、ヒトの脳に電流を流し、辛い記憶を消去する実験を行い、その成果を22日発行の専門誌「ネーチャー・ニューロサイエンス」に掲載した。これは、トラウマ(心的外傷)や精神障害、薬物中毒などの疾患に対する治療改善に向けた野心的な探求の一環である。
 実験では、患者はつらい話を聞かされ写真を見せられる。1週間後に電気けいれん療法(ECT)を受けた後、話を思い出してもらう。その結果、話は完全に記憶から消えていたことが分かった。実験を主導したオランダ・ラドバウド大学ナイメーヘン校の神経科学者Mrijn Kroes博士は「かなり強い影響がある」と、成果をあげたことを明らかにした。
 かつては、記憶がいったん脳に定着すると、ずっと保持され変わらいないと見られていた。不安障害の患者は、新たな記憶を組み込むことで不安に打ち勝つよう治療された。だがそれでも古い記憶は残り、いつ思い出すのかわからないとされていた。
 しかし10年ほど前に、実験用のマウスに恐怖を覚えた出来事を想起させたところ、その出来事の記憶は一時的に不安定になったように見えたが、何もしなければ2度目にはその記憶は定着したことが分かった。これが、再固定化(リコンソリデーション)と呼ばれるプロセスである。
 ところが、再固定化のプロセスを妨害する薬剤をマウスの脳に直接注入すると、恐怖の記憶はすべて消去されたものの、その他の記憶は消去されなかった。
 ヒトの記憶の固定化のプロセスを妨害することができるかどうかは難しいとみられていた。ヒトの脳に薬剤を注入するのは危険なことだからだ。Kroes博士らはその問題を避けられる方法を見いだした。
 同博士らの実験は、ECTを受けている深刻な鬱病患者39人を対象に行われた。これら患者は、ナレーションとともにコンピューター画面に映し出された2件のつらい話の写真を見せられた。1つは、自動車事故に遭った子供が手術で足を切断せざるを得なくなったというもの。もう1つは、姉妹が誘拐され、いたずらされたという話だった。
 1週間後、39人は無作為に3グループに分けられた。39人はつらい物語のうちの一方について詳細を思い起こす(リアクティベート)ようさせられる。
 Aグループはその直後にECTを施され、翌日に両方の話をどの程度覚えているか複数回答のテストを受けた。すると、リアクティベートを行っていない方の話については詳細をほとんど思い出した。しかしリアクティベートを行った話は記憶が極めてあいまいで、当てずっぽうといってもいいものだった。Bグループは、ECTを施された後、すぐに記憶テストを受けた。同グループの患者の記憶は両方の話とも完全だった。このことは、記憶に損傷を与えるには時間が掛かることをうかがわせる。CグループはECTを受けなかった。このグループは記憶がむしろはっきりした。これは、リアクティベーションもECTも記憶の再固定化を妨げ、ヒトの記憶を混乱させることを示している。
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303745204579275433986226114
 みさにんの実験の話に戻ろう。この実験は、後に更にソフィスティケートされた形で2000年にナダーとそのグループによりなされた。Nader,K, Schafe GE, LeDoux, JE. Fear memories require protein synthesis in the amygdale for reconsolidation after retrieva. Nature 2000; 406:702 [Pubmed: 10963696]  この先生のグループの研究には、ル・ドゥーの名前もあり、やはり先生の指導のリーダーシップのもとで行なわれていることがわかる。この研究では、同じくラットを用いて、音を鳴らした後に足にショックを与えるというところまでは同じだが、今度はその後に電気ショックを与える代わりに、脳の扁桃核にアニソマイシンを注射したという。すると音を鳴らしてもそのマウスは何も反応を示さなくなった。ということはアニソマイシンにより一度形成された学習が消去されてしまったということになる。またこの学習が残っているかどうかについては、ボトルを舐めるという行動の変化から、体の動きを止める(フリージング)の長さという形に改められたという。これっていわば解離反応の長さという風にも考えられるであろう。
このナダーたちの研究が優れている点は二つあった。一つは電気ショックの代わりに蛋白質合成阻害剤のアニソマイシンを用いることで、学習の際のシナプスが形成されることを疎外したという過程がより明確になったということである。ここは少し説明が必要かもしれない。長期記憶が成立する、ということはシナプス間のつながりが成立するということで、それは究極的にはそこでの蛋白合成が行なわれるということである。シナプスの素材はたんぱく質だからだ。そして何よりもそれを注入した場所、すなわち扁桃核が特定できたということである。
しかしこの辺の研究、相当やられているようだ。固定と再固定では、一体何処に違いがあるのだろうか、脳の中で、どのような物質が用いられる(逆に用いられない)ことがその違いを生んでいるのか、ということについて、多くの研究があるものの、はっきりしない。コンピューターのアナロジーが好きな人はこう考えるといい。文書を作り最初に登録する。次にそれを引き出してすこし手直しをして、更新して登録する。一体コンピューターの中ではどのようなことが起きていて、初期の登録と更新にはどのような違いがあるのだろう?そんな話だ。
 

再固定化で起きていること

 さて再固定化のプロセスには興味深い問題が潜んでいる。動物実験ではある記憶が十分に学習された後には、それを思い起こす際にタンパク質合成阻害剤のアニソマイシンを注入しても、もはやその記憶は障害されないというのだ。障害されやすいのはまだ十分に学習されていないものである。つまりたとえばある詩を完全に暗誦しつくしている場合は、それを再び声に出して朗読したからといって、その記憶が改編される可能性はないわけだ。そこで新たなタンパク質合成は行われないことになる。また想起の際に新しい情報が付け加わるような場合にも、アニソマイシンはその記憶自身を障害するという。
以上のことは次のように理解される。記憶といっても完全なものはない。その一部は多くの場合時間とともに徐々に失われていく。「消去」されていくのだ。するとあることを想起する際には、不完全になった記憶の部分を強化補強するためにシナプスが新たに再生、ないし新生されることになる。その可能性は二つあるという。一つはすでに出来ているシナプスが強化されること。もう一つはそれに参加している神経細胞の数がより多く動員されるということだ。(例の本Chapter 11 Memory Reconsolidation or Updating Consolidation? Carlos J. Rodriguez-Ortiz and Federico Bermúdez-Rattoni.  In Neural Plasticity and Memory: From Genes to Brain Imaging (Frontiers in Neuroscience) CRCP ress, 2007よりいずれにせよ思い出すということは、その記憶のうち失われた部分を強化する、そのためにタンパク合成が行われるということを意味するが、そこに記憶の改変が同時に起きてもおかしくない。
たとえばかやぶき屋根の農家に年に一度避暑に出かけるとしよう。しっかり作られた家だが、一年のうちには修繕する必要が生じ、そのために新しい萱を用いたり、襖を張り替えたりすることになるだろう。それが新たなタンパク合成ということだ。大概私たちが作ったものはそのような性質を持つ。
 ここで完璧な記憶の例としては、コンピューターのそれを考えればいい。私たちが一年に一度使う資料をコンピューターのハードディスクから呼び出すとする。この場合はおそらく年度を書き換えるということさえしなければ全く同じ資料をそのまま用いることになる。しかし生身の人間にこのような現象は絶対に起きないのだ。とすれば記憶を想起するということは、多かれ少なかれかやぶき屋根の農家モデルに従うことになる。
これは実は不都合な事情を意味する。最初からあいまいな記憶は、それが想起される際に、誰かから誤った情報を与えられることで、少しずつ形を変えていくということにならないか?つまり記憶は操作されてしまうことになる。本人が気が付かないうちに。しかし同時にこれは、固定されて何度もよみがえってくるような記憶を改変する可能性を秘めているということになりはしないか?そう、それが治療への応用可能性を示していることになるのだ。

再固定化の話、さらに続くのであるが、ネットでは4年前に富山大学で、画期的な研究が行われたことが報告されている。以下にこのサイトの記載を参考にする。http://www.jst.go.jp/pr/announce/20100323/
アクチビンと呼ばれる物質がある。動物の体内で分泌されるホルモン因子として、さまざまな臓器において増殖や分化を制御することが知られていたということだが、その脳における働きは不明であったという。ところが富山大の井ノ口馨教授の研究グループは、これが再固定化のメカニズムに関与していることを発見したという。そのためにまずまず脳内アクチビン活性を人為的に制御できる遺伝子操作マウスを世界で初めて作製したという。日本人の手でというのだから、これは画期的なことである。いかに引用する。
このマウスを用いた研究により、記憶の再固定化が起きる実験条件下では、いったん強固に形成された恐怖記憶でも想起時に脳内アクチビンを阻害すると、その後、恐怖記憶が減弱すること、また消去学習が起きる実験条件下では、想起時に脳内アクチビン量を増やすと消去学習が抑制され、いったん形成された恐怖記憶が消去されにくくなることが分かりました。これらの結果から、脳内アクチビンは恐怖記憶の再固定化と消去学習の両方を制御していることを明らかにしました。
私なりに理解したところでは、このアクチビンとは、記憶の消去された部分や書き換えられる部分に対して働き、シナプスの新生や増強を促すことになる。これまでに紹介したアニソマイシンがこのプロセスにマイナスに働くとしたら、アクチビンとはプラスに働く、おそらくBDNF(脳由来神経栄養因子、精神科医はこちらのほうになじみがある)のようなものではないか。

この研究は20103月ということだから、それから4年以上たってどれほどの成果が積み重なったかは、ネット上は明らかではない(というか、不思議なことにあまりこのテーマではヒットしないのだ。もっとセンセーショナルに扱われるはずなのだが)ただアクチビンを薬物として与えることでPTSDのフラッシュバックを抑えることができるのではないか、などと臨床家の夢は膨らむのである。