2014年12月18日木曜日

最新の解離(8)

米国とキューバの国交の再樹立。ここ数日で最も喜びを感じたことである。人と人とが関係を取り戻すことは特に自分と深い利害がかかわっていなくても嬉しいものである。しかしこれが何らかの形でテロ活動に手を貸す形になってしまった場合はどうだろうか。決して性善説に基づく世界観では済まされないという現実がある。

5)解離と精神分析  -ブロンバーグの理論
精神分析の世界でスターンとともに解離の問題を非常に精力的に扱っているのが、現代の米国の精神分析における新しい流れを代表する精神分析家フィリップ・ブロンバーグである。本章では彼の近著「関係するこころ」(フィリップ・ブロンバーグ、吾妻壮ほか訳、誠信書房、2014年)をもとにその理論を追ってみる。ちなみに本書はThe Shadow of the Tsunami (Routledge, 2012) の全訳であるが、まず目を奪われるのは、気鋭の脳科学者でありかつ分析家のアラン・ショアによる30ページにも及ぶ長大な序文である。アラン・ショアについては本書の第●●章で触れているが、彼の発言力の大きさを改めて感じさせる序文である。
 結論から言えば、ブロンバーグの解離理論は、基本的には別章●●で検討したドネル・スターンと同様の路線にあると言える。というよりブロンバーグこそが解離とエナクトメントを結び付けて論じる先駆けとなったのであるBromberg, P Standing in the spaces: Essays on clinical process, trauma, and dissociation. Hillsdale, NJ, Analytic Press. 1998。外傷説とサリバンの理論と解離とエナクトメントと脳科学。そして愛着理論。これらが合流するのが新しいトレンドであり、その開拓者の中心人物がドネル・スターン、ブロンバーグであり、彼らに脳科学的な根拠を提供するのがショアなのだ。
 ブロンバーグの著述からは、彼がトラウマ論者という印象を改めて受ける。彼はトラウマを発達的トラウマとして、つまり「連続体」として捉える。そして自分の存在の継続自体にとって脅威となるトラウマの影響を tsunami(津波)と表現し、それが彼の著書の題目にも反映されている。(ちなみにこの「津波」は我が国を襲った東日本大震災とは直接は関係ない。)
 発達的トラウマの体験により、私でない私(not-me, サリバンの言葉である)が形成されるが、それは「他者の目を通して自分を見る力の欠損」を同時に意味するとする。そしてそれを治療的に扱う分析状況としてブロンバーグが提唱するのが「安全だが安全すぎない」関係性であるという。つまり早期のトラウマを、痛みを感じながらもう一度生きることを可能にするような治療関係であり、そこでは治療者は単に優しく安全であるばかりではならないというのだ。
 彼が紹介する治療例では、治療過程においてエナクトメントを通じて「私でない私」が自らの内に取り込まれて葛藤を達成するプロセスがとてもよくうかがえる。ブロンバーグは、エナクトメントが、あくまでも二者的な解離プロセスであることが強調される。(ここでスターンの理論の解説に登場した例の図を思い出していただきたい。)解離は患者だけではなく治療者をも包む繭のようなものとして表現される。
 ブロンバーグは、解離とメンタライゼーションとの関係についても触れる。彼はピーター・フォナギーやジョン・アレンなどの研究者による業績と自分の治療論を非常に近い位置においている。彼はまた解離についての彼の考えを本章でわかりやすく示している。彼によれば、解離は基本的には正常範囲でも起き、それはたとえば物事に夢中になった一意専心のような状態であるという。また抑圧は不安に対する反応であるのに対し、解離は外傷への反応であることとし、それをサリバンの分類に根拠づける。サリバンは不安はそれが生じる状況を段階的に実感することを許すが、外傷(サリバンの言葉では重度の不安 severe anxiety)では、起った時の直近のことがすっかり消し去られてしまう、と表現している。ここもスターンと論旨は一緒だ。 ブロンバーグの理論にはどこかコフート的なニュアンスもある。第5章「真実と人間の関係性」には気になる文章が現れる。患者の希望は、それが分析家から受け入れられるだけでなく、必要とされること、心地よさをもたらすという認識であるという。そして発達早期にそれが欠如することが関係性の外傷につながる。ブロンバーグはこれを愛と呼んでもいいとさえ言うが、精神分析における愛というタブーの領域に踏み込んだ注目すべき文章である。人間にとって愛されるという体験を、しかも幼少時に持つことが、心の成長にとって決定的な役割を担う。
葛藤と解離

 ではブロンバーグは従来の精神分析の立場とどのように違うのか?それを象徴するのが彼の葛藤に関する理論である。彼は古典的な立場では「葛藤をたとえ患者がそれを経験できていない時でさえ常に精神機能を組織化しているように考える(P84)」という。また葛藤への防衛が必ず解釈により解決するという姿勢を問題視する。彼の立場は基本的には欠損モデル、ないしは外傷モデルのそれであり、発達過程で認識されないことによる外傷を重視するのだ。彼はそれを、性的虐待や暴力などに代表される、大文字の外傷 Trauma と区別する。そしてその結果として生じるのが、解離された「私でない自己―状態」なのである。
 「私でない自己―状態」は、治療者と患者の両方により解離させられ、エナクトされる。そのような治療関係においては、治療者は患者の話の内容よりは情動的な反応を行う。それにより自己状態のシフトが感じられるからだ。そしてこれが本省の表題にあるような「解離的なギャップに気を付ける」ことの意味であるという。
 解離のギャップに気を付けるブロンバーグの患者へのアプローチは、あたかもDIDの患者さんへの語り口のようだ。「私は、あなたには後ろに隠れている別の部分があって、その部分は、私が今しがた言ったことを嫌っているような気がするのです。」(P90)という、「トーキングスルー」のような言い方を紹介している。「解離的なギャップに気を付ける」治療者は同時に、葛藤を前提とした言葉の言い回しには注意を喚起する。患者の言葉を抵抗と見なす傾向、矛盾する連想の内容を合理的に解釈する傾向。そこにはカンバーグ流の「スプリッティングの解釈」も含まれる。いずれも葛藤モデルに従った「わかった風な」解釈と言えるだろうか。それに対してブロンバークは「解離が作用している限り『一貫性のなさ』には何の参照枠もない」とする。
 ただし彼の理論は葛藤を排除するものではない。「精神機能が本来、解離と葛藤の間の弁証法である」と言い、葛藤(抑圧、と言い換えてもいいだろう)と解離が排他的ではないことをも示している。彼はまた「正常な心理機能としての解離は、通常内的葛藤との快適な弁証法的な対話により作用する」(P125)とする。ただし「解離が絶頂の時、葛藤を構造化する力は、まだ存在していないということである。」ともしている。
 ここで筆者の私見であるが、人の心は解離と葛藤の弁証法として、つまりは両方が欠くことのできないメカニズムとして働いているとすれば、これほど都合のいいことはない。なぜなら「解離の議論は、抑圧の議論と相互補完的です」と言えるし、解離の議論は精神分析を豊かにこそすれ、それを攻撃するものとはならない。平和主義の筆者としてはこれはうれしいことだ。ただし解離の議論には、抑圧理論の弱みを突いているようなところもあり、場合によっては解離一辺倒の議論さえ成り立つような気さえしてくるから悩ましいのだ。
抑制と解離で十分ではないか(私見)?
 さらに筆者の見解を示すならば、私は心に関する理論は、抑制と解離で結構こと足りる気がする。抑制とはsuppressionである。(ちなみに抑圧はrepression である。) あることを「考えないようにしている」のはほとんどは抑制のほうだ。心の片隅に一時的に押しやっているが、油断をすると出てくるという誰にとっても日常的に体験される心の働きである。しかし抑圧のほうは実は正体不明である。理屈としては抑圧は「抑制をもっともっと深く、強くしたもの」というニュアンスがある。抑制する先は前意識だろうが、抑圧はそれより深い無意識へと押し込められる。しかしフロイトは抑圧されたものは常に出て来ようとする力を持っているという。いわゆる逆備給という力。風船を水面下に押し込めると上がってこようとするだろう。そして心はこの圧力を感じているはずだ。あるいは症状という形でその影を意識野に落とす。でもそれも結局は抑制(の強いもの)、ということではないか。だって力を感じているということは「押し込めている」という実感がどこかに働いているのだから。そしてこの力が感じられなくなったとしたら、それは結局「解離」と変わらない気がする。
 フロイトはこの抑圧という概念に確信を持っていた。心という装置は抑圧されたものをさまざまなものに加工する。それが症状であり、錯誤であり、時には創造的な活動であると考えた。しかしその後の100年の精神分析の歴史で、そうは簡単にいかないことがわかっている。解釈により、抑圧されたものの内容を解き明かすという作業がいかに難しいか、それがいかに「絵に描いた餅」になりかねないかを臨床家ならよく知っている。
 私は心理の学生に次のような説明をすることが多い。解離とは無意識の中にある箱のふたが閉まっている状態である。それ自体は静かで、その存在は普通は感じられない。抑圧とは、その蓋が半開きで、中から出ようとしているものが感じられる。ふたを内側からノックしている音が聞こえる(症状)。これって意識野からもその存在が感じられるもの、つまりは抑制された内容という気がする。無意識に静かに眠っているもの、となると抑圧とも解離とも呼べるなにかではないか。とすると抑圧という概念が実は非常にあいまいである以上、解離の概念の方に軍配が上がる気がする。
 
技法について

ブロンバークは、治療は技法なのか、という永遠の問題にも取り組んでいる。彼は「『技法』が暗黙のうちに存在していることに気がつかないと・・・その技法と内的に一貫性を保ってはいても、二社間の細かな探索の可能性を閉ざしてしまうような聞き方のスタンスを生み出してしまう。」(P155 と書いている。
 ブロンバークは技法のひとつとしてフロイトの「自由にただよう注意」を挙げる。これはフロイトが「強制的な技法」ではない自由な技法として提唱したが、患者の言葉の意味を見出すという作業にとってかわることにより、校正の分析家たちにとってはその目的を果たさなかった。しかし関係精神分析的な「聞き方」とは、「絶えずシフトしていく多重のパースペクティブ」に調律することで、それは両者によるエナクトメントにも向けられるという。
ブロンバーグは技法について、演奏活動を引き合いに出す。すぐれた演奏は単に楽譜を追って楽器を操るだけではない。そこに「湧き出る」音楽がなくてはならない。そしてそれは演奏に感情的、身体的に巻き込まれ、作曲家が曲を作っている間に感じた感情を表現するものであるという。治療についてもそれは言える。そこには規則や決まりに従った部分があるが、それだけで治療は成り立たないのである。このことは講演などにも言えるかもしれない。書かれてものを朗読するのか、それとも原稿を見ずに語るのか。
ともかくもこのような分析的なかかわりは、多くの分析家が異口同音に表現しているものだ、とブロンバーグは言う。ウィルマ・ブッチの「象徴化以前のsubsymbolic」、ドネル・スターンの「未構成の unformulated」、そしてブロンバーグ自身の「解離している dissociated」体験。ジェシカ・ベンジャミンのサードネス thirdness の概念化もそれに関係しているという。

無意識について

ブロンバークは無意識的空想についての考えも披露している。特にクライン派の精神分析ではあまりに重要なこのテーマにどう対峙するかが、ブロンバーグにとっても重要であるらしい。ちなみにこの概念は筆者にとっても悩ましい概念だった。無意識的空想の内容について少しでも明確にしようとしたら、それは「意識的」になってしまうのではないか?そもそも無意識で考えるということなどあるのだろうか? という疑問をつい持ってしまうが、精神分析の歴史でも実はこの概念の持つジレンマを口にした人は多いらしい。かのアメリカ西海岸の分析家グロッツテインもそうだったという。「分析家が患者とともに本当の意味で言及することができるのは、すべて意識でき空想であり…」と述べたという(p181) ブロンバーグの場合も同様の疑問を持っていることが吐露されている。「私が無意識的空想という概念を受け入れることに気が進まないのは、理論的というよりもむしろ臨床的なためらいなのだが、実際には理論的なためらいもある」(P185 という。「精神分析では、患者が分析家に自分の無意識的空想を打ち明けるのではない。患者は自分自身の無意識的空想そのものであり、精神分析という行為を通して分析家とそれらを共に生きるのだ。」ここでですでにエナクトメントのことを言っているのがわかる。彼の言うとおり、患者が無意識内容を「打ち明ける」というのがそもそも矛盾している。言葉にした時点ですでに対象化しているのだし、その意味では無意識ではない。それを行為に出してしまうところが無意識的であり、その際はその行為そのものが無意識(的空想)というべきである。なるほど。ここから結局解釈などによる内容ではなく、関係性がより重要だという議論に入っていく。「ボストン変化プロセス研究会は、対話の領域が広がり、流暢さが増すことが、治療を通して永続的なパーソナリティの成長が引き起こされるために一番大切だと論じている。」これは「解釈中心主義」への挑戦とも読み取れる。
さらに無意識的空想は、しばしば「洞察」と結びつけられる、とブロンバーグは語る。無意識には内容があるイコールその内容を解釈するのが精神分析であるイコール精神分析は洞察を得ることが目標である、と等値されるだろう。しかし「洞察とは茂みに隠れている動物を発見するようなものではない。それは隠された過去の現実を暴くものではない。それは現在の経験の意味の再組織化であり、未来とかこの両方へ向かっての、現在における再方向づけなのである」(P191 。つまり洞察という概念を棄却したわけではないが、より関係論的に再定義できるというわけだ。
ところで私たちは解離された心の部分をどのように知るのか?ブロンバークは「なんとなくsort of 知っているという状態」について論じ、それが自分の解離された部分から感じ取れるものであるという。解離された部分はこうして自己へ「何となく」語りかけてくるのである。いわゆる関係性をめぐる暗黙の知 implicit relational knowing にもつながるその体験をどのように持つのか、それをどのように治療の中で生かしていくかについて、最後までブロンバークは明言を避けているようである。
ブロンバークの著述から感じるのは、ブロンバーグはすでに新しい精神分析の行先を見越し、そこには解離と心の理論、愛着、脳科学などがキー概念となるべきことを提唱しているのがわかる。私はこれについては常日頃考えていたことであり、全く異論がないどころか、むしろ非常に頼もしく、勇気を得た気がする。
ただ一言解離との関連で言うならば、やはり精神分析で扱う解離は「解離性障害」の解離とは若干異なるということだろうか。この感想はドネル・スターンの所論に対するものと同じである。ここで広義の解離と狭義の解離を区別すること、ないしは「精神分析的な解離」というタームの導入の必要が生じるかもしれないであろう。
解離性障害(狭義の解離)を扱う場合は、やはり解離され側がの人格部分を「個別に」、もう少し言えば「別人として」扱うという必要はどうしても出てくる。解離された側は、主観にとっては「なんとなく」「繭に包まれた」感じ取られるだけかもしれない。でも何となく「感じさせて」いる側はある明確な体験を持っている。精神分析ではあくまでも「こちら側」のみからそれについて扱うのだ。しかし解離性障害においては、向こう側まで歩み寄る必要がある。何となく姿を見せている解離された部分の側に行き、その声を明確に聞く手続きもどうしても出てくるのである。
この違いは不明確だろうか?精神分析では、解離している部分からの囁きを問題にする。ところが解離性障害では、囁き手と直接かかわる必要が生じるのである。
また本書で当然のごとく論じられているエナクトメントと解離との関係性についてはどうか。これはエナクトメントの斬新な理解の仕方である一方では、それ以外のエナクトメント、解離以外の由来を持ったエナクトメントの可能性も否定できないであろう。エナクトメントと従来論じられることの多かったアクティングアウトとは必ずしも明確に区別できないであろうが、アクティングアウトが無意識内容の表現という意味を持つ以上、エナクトメントと抑圧との関係も考えなくてはならない。その意味では従来の抑圧や葛藤を中心概念として据えた精神分析理論との関係については今後様々な観点から再検討されなくてはならないであろう。
しかしそれでも私はブロンバークにより開かれた精神分析の新しい地平に多くの可能性を感じ、今後の精神分析のさらなる発展の方向性を示された思いがするのである。