2014年12月15日月曜日

最新の解離(6)

  スターンによれば、ここで援用されるのが、サリバンの概念である good-me, bad-me, not-me であるという。日本語では通常、「よい自分」、「悪い自分」、「自分でないもの」あるいは「自分でない自分」と訳される。対人関係論の創始者ともいえるサリバンの理論がここで再登場するのだ。
スターンは興味深い説を提唱している。もし解離やエナクトメントが good-me bad-me の間で生じているのであったら、両者のあいだを治療を介して取り持つのはさして難しくない。問題は、me not-me の間に生じている解離であるというのだ。その際は治療者は「非合理的で感情のこもった体験に、時には相当長期間にわたってわが身を委ねなくてはならない」(p.215)という。そしてこの me not-me の間のエナクトメントを扱う事が治療上最も重要で、また難しいという。
 ここで少し解説を加えるならば、スターンやブロンバーグたちが言っている解離とは、おそらく相当広い範囲の体験を包括していることになる。そして good-me bad-me の間の解離とは、どちらかといえばスプリッティングに近いのだろう。そしてme not-me の間の解離が、私たちがこれまで論じてきた「解離性障害」として知っている解離、つまりそこで健忘や「させられ体験」が生じるような解離なのだと考えることができよう。
 スターンが次に論じるのが、分析家の側の解離という問題である。ただしこれは患者の側の解離によって引き起こされるものの、何か異物が患者から治療者にやってくるという、しばしば投影性同一視に見られるような状況ではないということを強調している。
 このテーマについて考える上での重要なヒントとなるのが、ハインリッヒ・ラッカーの同調型、補足型の同一化、ないしは逆転移という考え方だ。同調型同一化は患者の意識内容に沿って治療者が思考する内容であり、補足型はそれにたいして反応する形の思考内容である。たとえば「自分はダメだ」という患者に対する同調型の同一化は、「そうですね。あなたはダメなんですね」であるのに対して、補足型ではたとえば「そんなことでどうするんだ!」という思考となる。
ラッカーはこんなことを言っているという。「治療者は常に逆転移神経症にかかっている。」1957, P32(Racker, H. (1957), The meanings and uses of countertransference. In: Transference and Countertransference. New York: International Universities Press, 1968, pp. 127-173) ここでスターンがあげている例を示すならば、もし患者が攻撃性を示している時に、治療者が自分の攻撃性を否認している場合には、その患者に対して共感的にはなれないという。その代わり、患者が幼少時に怒りを向けた際に拒絶して来た親に同一化することになるのだ。
 この例はとても分かりやすく、またスターンの発想がどのようにラッカーの影響を受けているかについてもわかる。ただしラッカーはここに解離という用語や概念を持ち込んではいなかった。それはスターンらの功績と言えるのだ。
ところでここで私の一つコメントを差し挟むならば、この解離の概念は、やはり精神分析におけるスプリッティングの概念と類似しているということだ。むろん通常スプリッティングは意識内に生じている二つの矛盾する思考であり、解離は両者の間に「健忘障壁」があり、一つの心が両方を考えることができない、という違いがある。ただ他方では両者は葛藤とは異なる形での矛盾の処理の仕方という点では共通しているともいえるのだ。
またブロンバーグやスターンの解離理論は、投影性同一視(PI)の概念とも近いことがわかる。患者は(もちろん治療者も、だが)一緒にしておけない思考内容を相手(治療者)に投げ込む。それが治療者が患者の解離部分をエナクトする、という先の議論につながる。これはスターン自身が否定しているにもかかわらず、これはPIと似たような心の働きと考えざるを得ない。すると解離理論とPI理論とは似たような現象であり、出自が違うだけだ、ということにはならないだろうか? 解離理論の場合には、サリバンがその根底にある。何しろ me, not-me の概念を打ち出したのは彼だからだ。いみじくもブロンバーグは言っている。「サリバンの理論は、私の考えでは、解離の理論なのだ。」Bromberg, P. M. (1995), Resistance, object usage, and human relatedness. In: Standing in the Spaces:
Essays on Clinical Process, Trauma, and Dissociation. Hillsdale, NJ: The Analytic Press, 1998, pp.
205-222. P215

ではサリバンは解離についてどのようなことを述べているのか。サリバンはこう言っている。「パーソナリティの中で両親やほかの重要な人々に肯定されていない自己表現については、自己は言わばそれに気がつこうとしない。それらの願望やニーズは、解離されるのだ。」(Sullivan, H. S. (1940), Conceptions of Modern Psychiatry. New York: Norton, 1953. P21-22) ここでサリバンが言う解離は、実は schizophrenia 統合失調症の症状で用いられるような深刻な機制であるという。ただし彼の言う schizophrenia はかなり広い意味を持っていたのもの事実である。そしてそれはおそらく私たちが用いる「解離性障害」も含むに違いない。
 ともかくこのサリバンの言う解離されたものは、彼自身の言葉を借りれば not-me となるが、それは象徴化されずに自我の外にとどまり、時期が来れば侵入してくるようなものだ。まさにスターンが言うエナクトメントのように。このサリバンの理論にはフロイトのような欲動 drive は存在せず、またこの解離の精神への影響は、通常は目に見えないものであるという。しかしパーソナリティはそれを中心に構造化されていて、それはちょうど絵がキャンバスの周辺の白地に囲まれて構成されるのと同じだという。(p. 218) それは例えば田舎道のようなもので、そこを歩く限り何も疑問を覚えないが、それはそれが余計なところに入っていかず、決められたところだけを通るからだ、という。
フロイトによれば、防衛は無意識的な葛藤から生じる。そしてそれは葛藤の一方だけを意識化する形で行われる。それがフロイト的な葛藤の回避のされ方だ。しかしサリバン的に言えば、葛藤は解離という形で、すなわちもう片方を構成しないことで回避されるというのだ。
スターンの解離に関する議論をもう少し彼自身の用語を使って説明してみよう。彼は構築主義の立場からは、主要な防衛は、体験を創造したり分節化 articulate したりすることへの、無意識的な拒否、可能性に背を向けること、であるという。人がそれに対して興味を持たないとき、体験は事実上存在しないことになる。それが心のどこかの隅に「留め置かれてparked」いたり、秘匿 secrete されているということではない。最初から構成されていないのだ、と言う。解離された自己状態は、いわば可能態としての体験 potential experience であり、その人がそうすることができるならば存在していたはずのものである。
現在の状況が私たちの最も深い層にある情緒や意図と交流することで、各瞬間に体験が刷新される。しかし私たちは私がなすことを直接体験することで新しい体験を構築することに参加することはほとんどない。私たちがどれほど頭では自分たちの創造的な役割を信じていても、私達が実際に行うことはいつも招かざる性質を帯びているのだ。未来は私たちのもとに来る。それはそのようにして見出される。それは向こうから「訪れる arrive 」性質のものだ。
このスターンの感覚は私自身の体験に関する理解とも通じる。私たちの体験とは刻一刻私自身により創造されているようで、実は心の深層と外の現実世界とのかかわりで私たちに訪れてくるものなのだ。そして解離されているものも、期が熟すればそのようにして私たちの体験に組み込まれていくことになる。
 私たちのなすことが、「向こうから来る」という性質は、でも思考においても表象についても言える。考えが、発想が、新しい旋律が、向こうからやってくる。時には厳格に近いような生々しさやリアリティを伴って。もちろん誰にでも同じようにそれらがやってくるというわけでは決してない。たとえば私には聞いたことのない旋律が湧いてくる才能はないが、作曲をする人の場合はこれがあるはずである。
 以上の内容は、脳科学的には誠に正しい観察である。前野隆司先生の言う「受動意識化説」が示す通り、(私も同じことを「マルチネットワークモデル」で書いたが)私たちの意識は実は幻で、仮想的なものであり、脳のネットワークが自律的に産出したものである。そのことをすんなりと受け止めた場合、全てはエナクトメントである、という私の最初の極論に至るということになる。しかしスターンやブロンバーグの議論は、それを解離と結び付けているところが特徴である。それはそれで歓迎なのだが、すると今度は「何でも解離」になって混乱するのではないかと心配するのである。
ところでスターンは解離されている心の部分を取り戻す手段は、心の中のざわめきに耳を貸すことであるという。ここは彼自身の記述を引用しよう。
治療中に自分の解離に気づかせてくれたのは、ちょっとした心のざわめき chafing であった。 さてここで最初の疑問に戻る、とある。なぜ解離の存在が、心のザワつきで見つかるのか。目がそれ自身を見ることができなくても、どうしてそれ自身のヒントが得られるのだろうか。おそらくこれらのヒントの大部分は、私たちの知覚を逃れるのだ。でも精神分析的な作業への献身によりそれが可能になる。胸のザワつきは葛藤の前触れのようなものだ。(p225

解離している部分は、その存在をざわめきで伝える。それは例えばフロイトの不安信号説、すなわち「抑圧しているものが不安を信号とする」という説と少し似ている。臨床家の中には、この両者を区別することにあまり意味を見出さない人がいるかもしれない。しかしスターンならこう言うだろう。「いや、解離されている体験は、まだその時点では持たれていない(「フォーミュレイトされていない」)のだ、と。確かに抑圧されたものというのは、既に無意識の中に所与として既に存在していて、ただしそこに抑圧という名の蓋がかぶっている感じである。しかし解離に関しては、実際にはそうではなく、まだ体験されていないのだ、というのがスターンの考えなのである。

解離されている心の部分を取り込んでいくためには、心のざわめきを用い、それを手掛かりとすることだが、それは最初はたやすくはない、とスターンは言う。しかしそれがある種の自由を自分に提供してくれるという感覚を生むのだという。