2014年12月28日日曜日

最新の解離(18)


10DSM-5における解離性障害(または「解離症」?) 
              
解離の最近の流れについて紹介する際は、2013年に発刊された米国の精神科診断基準DSM-5DSM-5 (1) における解離性障害の位置づけについて論じないわけにはいかないであろう。言うまでもなく、解離性障害は、1980年に米国で刊行されたDSM-III2)において、従来のヒステリーの呼び名を離れて新たに認知されることとなった。しかしそれから30年以上を経ても、本障害は臨床家によってさえも十分に受け入れられずにいるという印象を受ける。それはわが国だけでなく、欧米でもその事情は同様であるという(3)。それはDSM-5による解離性障害の新しい定義や診断基準によりどのように変わる可能性があるのだろうか?
解離性障害の位置づけや分類を考える上で大きな問題となるのが、それとトラウマの関連である。従来のDSMには、記述的でありかつ疫学的な原因を論じないという原則があった。これが例のDSMの「atheoretical 無理論的」という方針であり、解離性障害とトラウマとの関係については、明確には示されていなかったという事情がある。
しかし今回DSM-5の作成段階 において、「トラウマとストレス因関連障害 Trauma and Stressor-Related Disorders」という大きなカテゴリーが作られた際、そこに心的外傷後ストレス障害(以下PTSDと記載する)、 急性ストレス障害(以下ASDと記載する)、適応障害とともに解離性障害を含む計画があったという(3)。最終的には解離性障害はこの「トラウマとストレス因関連障害」の中には組み込まれなかったが、そのすぐ後に独立して掲載されることで、両者の概念的な近さが表現された形となっている。
ちなみにDSM-5における「トラウマとストレス因関連障害」という大きなカテゴリーについては、それ自体が従来のDSMの、記述的で無理論的、非病因論的な方針からの大幅な転換を意味しているといえるであろう。そして解離性障害がなぜ最終的にこのカテゴリーから除外されたたかについては、やはり解離性障害の診断基準のどこにも、トラウマの既往やそれと発症との因果関係がうたわれていないという点が大きく関係していたと考えられる。ただしこの問題は、最終的にはこのカテゴリーに属するPTSDに「解離サブタイプ」が新設されたことにより一種の妥協策が取られたという見方もできよう(後述)。
 ここでDSM-5において解離性障害の診断基準にどのような変更が加えられたかについてその大枠を示すならば、以下のような項目にまとめることが出来る。

1)「現実感喪失体験」が離人体験と一体となったこと。すなわちこれまでの「離人性障害 depersonalization disorder」の代わりに、「離人・現実感喪失障害depersonalization/derealization disorder」として提示されたこと。
2
)「解離性遁走 dissociative fugue」が、これまでのような独立した診断ではなく、「解離性健忘 dissociative amnesia」の下位分類として位置付けられたこと。
3
)「解離性同一性障害」の診断基準が若干変更されたこと。特に人格の交代のみならず、人格の憑依 possession もその定義として含まれるようになったこと、など。
 以上はいずれも解離性障害の本質部分にかかわった変更とは言えず、全体としてはその診断基準は従来と大差ないと言えるであろう。ただしここに解離性障害のセクション以外での変化についても言及すべきであろう。それが
4
PTSDの下位分類としてPTSD解離タイプが挙げられたこと、である。
なおDSM-5の日本語版()が作成された段階で、私たちはこれまでの「障害」に代わって、あるいはそれと並置される形で「症」という表現を目にすることとなった。解離性障害についても、「解離症」という呼称が並んで示されている。これは解離性障害に限ったことではなく、すべての disorder に原則的にあてはまるが、日常的にこのタームを用いる臨床家諸氏にとっては、この「解離症」という耳慣れない呼び方も少なからず影響を及ぼすことになっているといえよう。以下にこれらの点について簡単に概説する。

1)離人・現実感喪失障害について 
離人・現実感喪失障害においては、自分の体(離人体験の場合)や周囲の現実世界(現実感喪失体験の場合)に対して、通常では感じないような距離が出来てしまったという奇妙な感覚が体験される。従来のDSMではこれら二つを個別に扱っていたが、DSM-5では同時に生じる一つの体験とみなすことになった。この離人・現実感喪失障害という障害単位を設けることでそれ以外の解離性障害との差別化が図られることになるが、それは以下の二点においてであるという(4)。一つは、同障害では記憶やアイデンティティの解離ではなく、「感覚の解離」が主として生じていること。もう一つは同障害が、そのすぐ直前のトラウマの体験への反応として生じることである。
 ちなみにこれに関連して、トラウマ体験に対する解離反応には基本的には3つのタイプが考えられるという。それらは
①そのトラウマから身を引き離す反応(離人・現実感喪失障害のことを指す)、
②トラウマを忘れてしまう反応(解離性健忘を指す)、
③現在の自分のアイデンティティから記憶を分けてしまうという反応(DID,解離性のフラッシュバックを指す)。

この離人・現実感喪失に関しては、その生物学的特徴が得られている事も、この障害の独自性を支持していることになる。それは a. 後頭皮質感覚連合野の反応性の変化、 b. 前頭前野の活動高進、 c. 大脳辺縁系の抑制、である(5)。(ちなみにこれらの所見は、後に述べるPTSDの「解離サブタイプ」と基本的には重複する内容である。)
 また離人・現実感喪失についてはHPA軸(視床下部―下垂体-副腎皮質軸)の異常も見られるという。すなわちHPA軸の過敏反応(高いコルチゾールレベルと、フィードバックによる抑制の低下)のパターンを示すということだ (6)。(参考までにうつ病やPTSDは逆に鈍化したHPA軸の反応パターンを示すとされる。)このような研究結果から分かる通り、離人・現実感喪失障害がクローズアップされた背景には、この大脳生理学的な所見がみられることが大きく働いているようである。
ちなみにDSM-5をざっと眺めて気がつくことは、従来細かく分類される傾向にあった精神障害の壁を思い切って取り払い、大きな枠組みにした部分が見られるということだ。統合失調症で伝統的に分類されていた緊張病型、妄想型、破瓜型といったタイプの消失、自閉症スペクトラム障害の中のアスペルガー障害、レット症候群、小児期崩壊性障害といった細かい分類の消失といった例が見られる。おそらく疫学的な研究とともに、それらのカテゴリーを維持するだけの根拠が見出せなくなり、むしろそれらに特徴的とされた病像も、個人間のバリエーションとしてとらえるべきであるという意見が多数を占めるようになったのではないかと推察される。離人性障害と現実感喪失障害を合わせるという方針もそのような「細かい分類を排する」というDSM-5の特色を反映しているものと思われる。

2) 解離性遁走の格下げ
解離性遁走はDSM-IVまでは独立した障害として解離性障害の中に掲げられていたが、DSM-5からは心因性健忘のサブタイプとして分類されることになった。その定義は、それまでの「突然の予期しない、自宅ないし職場からの旅立ちsudden, unexpected travel away から「一見目的を持った旅立ちやあてのない放浪 apparently purposeful travel or bewildered wondering」という、より具体的な表現にかわっている。また解離性遁走のサブタイプへの「格下げ」については、遁走の主症状が目的もなく旅をすることよりはむしろ健忘そのものであるということ、新しいアイデンティティを獲得することや混乱したままでの遁走などは常に存在するとは限らないこととされる(4)。さらにDSM-5のテキスト本文によればこの解離性遁走そのものが、DID以外にはまれであることなどが挙げられている。
 ちなみに筆者の経験では、心因性遁走は、男性の患者に特に多く見られ、その一部がDIDと重複しているという印象を受ける。言うならば解離性遁走は男性に現れやすいDIDの表現形態ではないかと思うほどである。そのためにこの「格下げ」については筆者は多少なりとも違和感を持っていることを付け加えておきたい。
別の章でも述べるとおり、解離状態にはいわばリミティブな意識状態のモードが存在し、そこへの回帰が時々原因不明ながらも起きるのではないかと考える。そしてその状態においては放浪する、目的も不明で歩き回るということが一つの特徴ではないかと私は考える。その意味では解離性遁走を独立の疾患単位としては立てずに解離性健忘の下位におくことには私は違和感を覚えるのだ。

3) 解離性同一性障害の診断基準の変更
解離性同一性障害(以下DID) の診断基準にもいくつかの変更が加えられた。DSM-5DIDの診断基準のAは次のような文で始まる。「2つ以上の明確に異なる人格状態の存在により特徴づけられるアイデンティティの破綻であり、それは文化によっては憑依の体験として表現される。Disruption of identity characterized by two or more distinct personality states, which may be described in some cultures as an experience of possession.」(DSM-IV-TR (7) で同所に相当する部分にはこの憑依という表現は見られなかった。)またAの最後には「それらの兆候や症状は他者により観察されたり、その人本人により報告されたりすること。」とある。つまり人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の報告でいいということになる。(DSM-IV-TRでは人格の交代がだれにより報告されるべきかについての記載は特になかった。)さらに診断基準のBとしては、「想起不能となることは、日常の出来事、重要な個人情報、そして、または外傷的な出来事であり、通常の物忘れでは説明できないこと。」となっている。(DSM-IV-TRでは「重要な個人情報」とのみ書かれていた。)

以上をまとめると、DSM-5におけるDIDの診断基準の変更点は、人格の交代とともに、憑依体験もその基準に含むこと、人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の申告でいいということを明確にしたこと、健忘のクライテリアを、日常的なことも外傷的なことも含むこと、の三点となる。
 憑依体験がDIDの基準に加わったことについては説明が必要であろう。シュピーゲル (4) はこれについて「病的憑依においては、異なるアイデンティティは、内的な人格状態によるものではなく、外的な、つまり霊、威力、神的存在 deity、他者などによるものとされる。」と説明している。そして「病的な憑依は、DIDと同様に、相容れないアイデンティティが現れ、それは健忘障壁により主たる人格から分離されている。」とも述べている。ここで「病的憑依」と断ってあることには、健忘障壁のない憑依は必ずしも病的ではないという含意がある可能性がある。
 
ちなみに従来のDSM-IV-TRでも憑依についての記載がなかったわけではないが、それはDDNOS (他に分類されない解離性障害、以下DDNOSと記載する) の下位の「解離性トランス障害(憑依トランス)Dissociative Trance Disorder (possession trance)」というカテゴリーの例として挙げられていた(7)。それによると憑依トランスは「おそらくアジアでは最もよくある解離性障害である」とされている。そしてそれらの例としてAmok (インドネシア), latah (マレーシア), pibloktoq (北極圏) などが挙げられた。これらがいわゆる文化結合症候群としても従来記載されてきたことは言うまでもない。
 じつは臨床上も「霊にとりつかれる」という形の体験はしばしば患者から聞かれる。それが解離と区別されるべきかの説明を求められた際に、筆者は時々答えに窮することがあったが、今回DSM-5であっさりと、DIDを「人格部分や憑依体験によるもの」と認められたことで、この件に対する回答の仕方は一応明快になったわけである。ただしこの変更にはある種の政治的な意味合いも含まれているようである。というのも世界には解離現象が、他人格への交代としてよりはむしろ、外的な存在や威力が憑依された体験として理解され説明される地域が少なくないからである。シュピーゲル (5)によれば、病的憑依の報告は世界の多くの国で報告されているという。それらは中国、インド、トルコ、イラン、シンガポール、プエルトリコ、ウガンダなどにわたる。このようにあげると何か発展途上国が多いという印象だが、米国やカナダでも、一部のDIDの患者はその症状を憑依として訴えるという。そこでDIDを憑依現象を含みうるものとして定義することで、より多くの文化に表れるDIDをカバーすることになるのだ。
 この憑依としてのDIDに関して、いくつかの少し具体的なデータも示されている。トルコの資料では、35人のDIDの患者は、45.7%が ジン(jinn、一種の悪魔)の憑依、28.6%が死者の、22.9%が生きている誰かの、22.9%が何らかのパワーの憑依を訴えたという(8)
 
ちなみにDIDの基準に憑依を含み込み、人格の交代を必ずしも第三者が見ていなくてもいい、などの変更を加えるに至ったのは、もう一つの次のような事情があるという(5)。それは解離性障害の診断の特徴は、非常にDDNOS(ほかに分類されない解離性障害)が多いということである。全体の40%がDDNOSに分類されているという。これはDSMの扱う数多くの精神疾患の中でも特に高く、それがDSM-5の編集者にとっては受け入れがたいという事情があった。それはそうであろう。分類をしようとしても、「その他」が4割も出てしまっては、分類の意味が余りなくなってしまう。
 解離の世界では一部の間に、DIDの診断を下すためには、治療者が人格の交代が目の前で起きるのを見届けることが必要であるとの了解事項がある。しかし他方では多くのDIDの患者は最初は警戒して治療者の前に姿を現すことが少ない。その為に本来はDIDとして分類されるべき患者がNOS扱いをされているという可能性があったのだ。そこでこの了解事項を撤廃するような診断が新たにDSM-5では考案されたわけである。
 ただしこれについては解離に対して懐疑的な臨床家からは、「人格の交代があるという報告だけで簡単にDIDと診断していいのか?」という疑問が呈されることが容易に予想される。
 これらの議論から、世界レベルでのDIDの分類に関して、ひとつの示唆が与えられることになる。それはDIDを「憑依タイプ」と、「非・憑依タイプ」とに分けるという方針である。ただし両者は決して互いに排他的ではない。私たちが「通常」のDIDと理解しているのは「非・憑依タイプ」に属するであろうが、それらのケースでも憑依体験を持つ事は少なくない。これに関連して Colin Ross9)はある欧米のデータで、60%近くのDIDの患者が、「憑依された」という感覚を訴えたという。
 さてこの両タイプがいずれもDIDである以上、このタイプが分かれる一番重要なファクターは社会文化的な背景ということになる。憑依タイプのDIDが見られるのは南アジアのいくつかの文化圏、ないしはアメリカではある種の原理主義的な宗教の信者たちなどである。特に正常な状態での憑依体験を重視している宗派の場合はその傾向は顕著になる。そうなると憑依タイプのDIDの割合も当然高くなることが予想される。それに比べて非・憑依タイプの場合は、異なるアイデンティティとしてしばしば選択されるのは、自分の人生のあるひとつの段階(子供時代)ないしは役割(加害者、保護者など)である。
 ただしこの点に関して シュピーゲル先生は重要なことを述べている。それは憑依タイプを提唱するからといって、憑依現象は現実の出来事ではないということだ (4)。それは非・憑依タイプにおいて彼らの中に異なる人が存在するというわけではないのと同様であるという。あくまでも個人の体験としてそうなのである。
 ここで筆者自身のコメントを加えておきたい。憑依という現象が社会に広く見られている場合には、当然のごとく憑依性のDIDが生じやすいであろう。しかしそのような文化的な影響を必ずしも受けていなくても憑依が起きる場合がある。筆者の担当するある患者は、悩みを抱えて相談を持ちかけた人に「神が憑いている」と言われてから初めてそれを実感するようになったという。別の患者はDIDの発症が、「あたかも背中から誰かに強引に侵入された」という感覚を伴っていたという。これらの例まで患者のおかれた文化的な体験として説明することはできないだろう。
 ところでDIDの「憑依タイプ」が提唱されることで、これまで憑依として扱われていた患者はDDNOSからDIDに「格上げ」され、より適切な治療が受けられるであろうか?おそらくその可能性は高いであろう。そして従来は憑依を訴える患者に対する治療には二の足を踏んでいた治療者たちも、より治療に積極的になるであろう。これはわかる。また逆に、憑依状態を示すDIDの患者を「浄霊師さんにお願いしようか?」と一瞬考えてしまうことがある。
 これもシュピーゲル (Spiegel, 4)によれば、民間の「ヒーラー」によるセッションも、多くの点でDIDの治療に似ていて、実際に多くの患者の助けとなっているという。そこでは異なる人格状態に発言の場を与え、その窮状を話してもらうことで少しずつその人格状態のあり方が改善していくことを期待するという方針が取られるのである。しかしその一方では、一部のヒーラーたちは、いわゆるエクソシズム(悪魔払い)的な扱いにより憑依のケースを扱うことで、症状の悪化を招きかねないという。悪魔払いを受けた人の三分の二がより状態が悪化し、自殺企図や症状の悪化による入院が見られるというデータが挙げられている。そしてそのような状態になった人たちに正しい治療をおこなうことにより、症状が改善すると述べている(4)。