2014年12月27日土曜日

最新の解離(17)

いわゆる「出癖(でぐせ)」について

子供の人格部分の「定着」を促進するべきか、回避するべきかは、非常に相対的な問題である。つまりそれはケースバイケースであり、それが良いことか悪いことかは単純には決められないと言うことだ。Aさんの子供の人格部分Aちゃんが、恋人であるBさんと一緒の時に出現することが多くなっている、という同じケースについて考える。それが是か否かは、実はAさんとBさんとの関係だけでなく、Aさんの生活全体を見なくては判断できないことなのだ。たとえばAさんがパートで本屋さんに勤めているとしよう。週3回、勤務時間は8時間だ。仕事は大体Aさんにはこなせる範囲だが、週末に客がたくさん訪れたり、クレームを付けるお客さんが現れたりすると、Aさんのキャパシティを超える緊急事態となることもある。Aさんは通常は一生懸命大人の人格で仕事をこなすが、そのような緊急事態では、時々意識や記憶が飛んでしまい、Aちゃんの人格が出現するというようなことが起きるようになったとする。
Aさんのパート先でこのようなAちゃんの振る舞いがますます起き、それが明らかにBさんとの付き合いによりで触発されているとしたら、つまりBさんといることで明らかにAさんが出やすくなり、つまり「出癖」がついてAさんの仕事の害になっているとしたら、これは問題ということになろう。その場合はBさんとの間でAちゃんの出現を抑制するような何らかの手段を講じることでさえ必要になるかもしれない。
ただしこのような形でパート先で出始めたAちゃんがその後どのようにふるまうようになるかは、かなりケースバイケースである。そのうちAちゃんが年齢的に成長し、パートの仕事にも適応し、Aさんの役割をとってかわってしまう場合もありうる。またAちゃんをたしなめることにより、Bさんとの間では出続けていても、逆に仕事中はAちゃんが抑制されて出にくくなる場合もあろう。
 さて私の臨床経験から言えば、AちゃんがどんどんAさんのパートの仕事を圧迫するというようなことは皆無ではないにしても、かなり少ないように思う。臨床家個人としてはそれを体験してはいない。AちゃんがBさんの前で「出癖」が付くことはよくあることだが、仕事にまでそれが侵食することは少ないようだ。そのような印象があるからこそ、Bさんの前でAちゃんがより多く出るようになってきているという話を聞いても、急いでそれをとめたりはしないのである。それに万が一Aちゃんが仕事の「邪魔」をすることが多くなったとしても、それはおそらく治療者やBさんがAちゃんとそのことについてまず話してみる段階であろうし、それはAちゃんにおとなしく寝てもらうよりは積極的な治療的介入といえる。
ただしここで一言注釈を加えておきたい。恋人や治療者の存在が子供の人格部分の出癖を生む場合、それがいわゆる「悪性の退行」を呈する場合がある。Bさんと付き合うようになってから非常に我儘にふるまう人格が出てBさんを疲弊させる、ただし両親の前ではいつものようにふるまうということが生じる場合がある。その際はBさんと付き合うという環境そのものが退行促進的であり、本人もそれを止めることが出来ない場合が多い。もし同様のことが治療者との間で生じている場合には、治療の継続そのものを再考しなくてはならないであろう。もちろんそれがAさんにとって大切なパートナーである場合にはその関係を絶つという選択はそれほど簡単には取れないであろうが、長期的に見た場合には安定した関係を築けないであろうことは予測できる。もちろんこの注釈に関しては、これは解離性障害の患者さんにとってのみいえることではない。

子供の人格部分の成長という現象

 子供の人格と出会い、かかわる事のひとつの目標は、その子供の人格部分の成長である。しかしこう書くと誤解を招くかもしれない。子供の人格部分は文字通り「成長する」というわけでもないであろうし、何しろ実際に存在する子供でもないのだ。またメタファーとしての「成長」に限って考えたとしても、それを期待できない子供の人格部分もいる。またやんちゃな子供の場合、周囲は成長するより先に「寝て」もらいたいと願うだろう。それでも当面の治療目標といえるのは、子供の人格が出現している限りは、それがより自律的になり、節度を持つようになるという意味での成長を果たすということである。治療者やBさんがAちゃんと話し合うことで、Aちゃんの心境に変化が生じ、「Aさんのためには~をしてはだめなんだ」と考えられるようになることを期待するわけである。
 ただしここにも悩ましい問題がある。Aちゃんは必ずしも主人格Aさんのために自分を律するべきだと考える保障はない。解離している人格部分が互いに利害を異にすることは、しばしば臨床上体験される。むしろAちゃんはAさんのために犠牲になるようなことは全く望まない可能性すらある。私の経験では子供の人格の多くは主人格の「お姉さん」(そのように呼ぶことが多い)に対して一定の敬意を払う傾向にあるが、例外も多々あるようである。
 さて以上のことわり書きを前提とした上で言えば、子供の人格部分は一般には時間経過とともに成長する傾向にあるようである。最初は言葉もおぼつかなかった子供の人格部分が、やがてしっかりとして話し方になり、書く文字も「大人びて」いくというケースを見ることは多い。一般的に言えることは、その子供の人格部分が比較的保護的なパートナーや、支持的な治療者との間で瀕回に登場するうちにそれが生じていくという印象を受ける。子供の人格が出てきた際に、私は名前と年齢を聞くことが多いが、実際に語る年齢が上がっていくことが臨床上確かめられることもある。
子供の人格部分の成長がどのような意味で望ましいかは、あえて述べるまでもないであろう。成長により人格はそれが持っていた可能性のあるさまざまなトラウマを克服し、言葉に直すことが出来る可能性がある。先に子供の人格の出現はある意味でフラッシュバックである、と述べたが、たとえ子供の人格部分が、遊び専門の役柄のように見えても、それは遊び足りないという意味でのトラウマを負った子どもの頃を表現しているという理解がおおむね正しいだろう。(もちろんこのような目的論的な理解には限界があるということは常に認識しておかなくてはらないが。) 
子どもの人格が「成長」するということは、その子どもが成長を促進するような、つまりは安全でサポーティブでかつ適度の刺激に満ちた環境であることを示していると言えるだろう。そうでないとその子どもの人格はその人格が成立した時点、多くはトラウマの起きた時点に留まっていることになる。フラッシュバックとはいわば固定して自動的に再生されて、そこに創造性が介入しないような精神活動である。フラッシュバックが繰り返されるということは、精神が凍結されているかのように成長することなくそこにとどまったままの状態であると考えられるのである。
こどの人格の成長の話をするとしばしば患者の家族から次のような質問を受ける。「ということは、子供の人格部分はどんどん成長して行って、やがて主人格のような大人になるんですね。」これに対して私はこう答えている。「理屈ではそうかもしれませんね。そしてそのような例も報告されています。でも大体そのうち姿を消してしまうことが多いようです。」実際に子どもの人格が思春期を経て成人するプロセスを私は終えたことがないが、それは私の臨床経験が不足しているせいかもしれない。しかし印象としては、子どもの人格はある程度年を重ねるうちに、その役割を終えて奥で休んでしまうようである。
それでは子供の人格部分をどのように成長させるかについては、そこに特別な技法はないのであろう。それは子育てに特に一定のテクニックがないというのと一緒である。治療者に十分な感受性や配慮があれば、あとは子供の人格部分に遊びを通して自己表現をする機会を持ってもらうということで十分である。子供の人格部分が言語表現が不十分であるだけ、非言語的な手法、つまりは箱庭、描画、粘土などを主体としたプレイセラピーが用いられることになろう。その過程で決まったパターンが出現するとしたら、その子供の人格部分はそれにより何らかの過去の体験を再現し、表現することで乗り越えようとしている可能性が高いと考えるわけである。治療者は子どもの人格が安心して出て来てプレイセラピーにより自己表現をするというレベルにまで導くということで、仕事の半分は終わっているのである。繰り返すが、そこに特別な治療技法、テクニックが必要というわけではない。

子供の人格部分が「遊び疲れる」ということ

私が臨床上よく用いる考え方に、「子供の人格部分が出てくる際は、遊び疲れるまで相手をしてあげてはどうか」というものがある。実際子供の人格部分は遊ぶことである程度満足し、その後ゆっくり「休む」という印象を受ける。この「遊び疲れ」のニュアンスは患者さん自身の表現にそのヒントが聞かれることがある。人格部分の中には短時間で引っ込んでしまう人がいるが、彼らがしばしば「眠気」を表現するのだ。あたかも彼らが持っているエネルギーに限界があり、一定時間以上は疲れて眠くなってしまうので内側に戻ってしまうということをしばしば聞くのである。
 もちろんこの「疲れ」や「眠気」にどのような生理学的な実態が伴っているかは不明であるが、少なくとも彼らの主観としてはそう体験されるらしい。ということはやはり、子供の人格部分は仕事中に飛び出してしまう傾向を抑えるためにも、しかるべき場(セラピーなど)でエネルギーを発散したもらうことが有効であると考えられるのだ。

子供の人格部分が大人の情報を知っているということ

子供の人格部分の扱い方の最後に、子供の人格部分の「子供らしくなさ」に関してひとこと述べておこう。
 解離性障害の治療に携わるものにとって、子供の人格部分と対面し、治療的な応対をすることは、治療者としてのキャリアーの一つの里程標であり、少し大げさに言えば「帰還不能点 point of no return 」というニュアンスすらあるように思う。多くの治療者が解離を扱うことで一種の色眼鏡で見られるということを体験する。「あなたもあちら側の人になってしまったんだね?」という憐憫の混じったまなざしを同僚から向けられることだってありうるのだ。身体のサイズとしては成人の子供の人格部分とプレイセラピーを行なうことは、人格交代という現象を認め、受け入れることを意味する。しかし解離性障害を「信じない」立場の治療者にとっては到底そのようなかかわりは受け入れがたいということになるだろう。
 たとえ人格の交代現象そのものは認めたとしても、何日か前にこのブログで述べた問題が頭をもたげる。「子供の人格部分に『出癖』がついたらどうするのだろう?」「子供の人格部分をそれとして扱うことで、医原性の人格交代を助長しているのではないか?」このように子供の人格部分をそれとして扱うまでに治療者は二つの障壁を乗り越えなくてはならないのだ。
解離性障害の懐疑論者にとって格好の攻撃素材となるのが、この表題に掲げた、人格同士の情報共有の問題である。子供の人格との会話で時々不思議に思うのは、その語彙の思いがけない豊富さだ。子供の人格部分はしばしば幼児期に特徴的に見られるような発語の障害を示す一方では、3歳の子供の語彙にはないであろう単語が出てくることがある。たとえば「自動車教習所」などは普通は出てこないだろうし、理解も出来ないはずだが、ある3歳(自称)の子供の人格部分はこのような言葉を理解し用いている。ここで不慣れな治療者の頭にはまたあの考えが頭をもたげてしまう。「やはりこの患者は子供の演技をしているだけではないのだろうか?・・・」「患者の演技に乗っている自分は、果たして治療者として振舞っていると言えるのだろうか?」
 
しかし実際に生じているのはDIDの方の持つ記憶や情報ソースには、人格部分が時としてアクセスできるという以上の何も意味していないものと思われる。