(9)子供の人格の扱い方
本章ではDIDの治療に関して、特に「子供人格」の扱いについての私のごく最近の考え方をまとめてみたい。まずはシンプルな問いからはじめよう。それは
「子供の人格が出てきたら、どのように扱うべきだろうか?」
というものである。この単純な質問に対して、すでに臨床家(精神科医、心療内科医、心理士など)の意見は真っ二つに割れてしまうといっていい。片や「子供の人格は無視する。相手するのは治療的でない」であり、片や「扱うことこそ治療的である」となる。もちろん、そのような減少に突然遭遇して、どのような対応をとっていいかわからないという臨床かが大半かもしれない。しかし同僚やスーパーバイザーと相談したり書物から学んだ結果として至る結論は、ここに述べた二つに集約されることが多い。そして現時点でも前者の方が圧倒的に優勢という印象を受ける。それは人の心を扱う専門領域であるはずの精神分析の立場をとる人々の中にも同様であるという印象を受ける。
もちろんその子供の人格が、誰の前でどのような状況で出てくるかにより、事情は大きく異なる問題でもあろう。治療者の前で、あらかじめ予想された状況で子供の人格が出てきた場合と、夜、恋人の前で突然出てきた場合とではだいぶ事情が異なる。しかしいずれの場合にも、その対処には両極端がありうる。最初から相手にしないか、それとも子供として話しかけるか、である。
ここで子供人格が出現する状況をいくつかあげてみよう。
もちろんその子供の人格が、誰の前でどのような状況で出てくるかにより、事情は大きく異なる問題でもあろう。治療者の前で、あらかじめ予想された状況で子供の人格が出てきた場合と、夜、恋人の前で突然出てきた場合とではだいぶ事情が異なる。しかしいずれの場合にも、その対処には両極端がありうる。最初から相手にしないか、それとも子供として話しかけるか、である。
ここで子供人格が出現する状況をいくつかあげてみよう。
l
受容的な人に出会い誘発される場合 ・・・DIDの場合は、自分の子供っぽく依存的な部分を抱えてくれるような人との間で出てくる傾向にある。それはたとえば恋人や配偶者、教師、先輩、友人、治療者などである。ただしそれらの人々に慣れ、その人との関係を安全と感じる場合に限られると考えるべきであろう。またそこに慣れていない第三者が介在する場合には、出現が抑制される傾向にある。
l
ある種の動作に誘発される場合 ・・・あるDIDの方は、書店でのアルバイトでポップを書いているうちに、「お絵かきモード」になり、子供人格に変わってしまうことがあるという。また実際に治療場面で箱庭やスクイグルなどを行っているうちに子供人格になる場合もある。
l
視覚、聴覚刺激に誘発される場合 ・・・ プレイルームにDIDの方を誘導した場合、そこにあるぬいぐるみやその他の玩具に刺激されて、より子供人格が出て来易くなることがある。
l
ストレスやトラウマを思い起こさせる体験に誘発される場合 ・・・DIDの方が実際に幼児期にトラウマを体験した場合、その時刻に決まってそのときの子供の人格が出てくる場合がある。
l
覚醒状態が低下している場合 ・・・ 多くの子供人格が夜間や就寝前、ないしは眠剤の服用後に出現する傾向にある。この時間帯ないしは状況では覚醒レベルが落ち、大脳皮質による抑制が低下し、一般の人々も退行して子供らしくなる傾向にある。
l
催眠やリラクセーションにより誘導された場合 ・・・ 子供の人格は催眠やリラクセーションにより出てくることが頻繁にあるが、そこには催眠をかける治療者側の受容性ということも関係している。つまり治療者側に子供の人格を受け入れる用意があることで、子供の人格のほうも「安心して」出ることができる場合がある。
以上の様々なさまざまな状況で子供の人格が出現するが、それは多くの場合、そうと気づかれずに見過ごされてしまう運命にある。親は「この子は時々幼稚なしゃべり方をする」「時々急に依存的になる」と考えるだけで、そこに人格の交代が起きているという発想を持たない場合も多い。また子供の人格の方でも自分があまり受け入れられていないと感じられる状況では、すぐに姿を消してしまう場合も多く、また自分があまり相手にされない場合には「奥で大人しくしている」ことにより、結果的にその存在が見過ごされてしまうこともある。
ところで子供の人格はなぜ成立するのだろうか? その子供の人格が出現する時に、常におびえたりパニックに陥った様子を示す場合には、それがある種のトラウマ体験を担っている可能性が高いことは言うまでもない。私が担当しているあるDIDの方の子供の人格は、毎日夜の決まった時間に出現する傾向にあるが、それはその方が幼少時に親との死別というトラウマ体験を持った時刻に一致している。別の方の子供の人格は両親の激しい争いごとを目の前にして、パニックに陥っているという体験のままの状態で出現する。
これらの子供人格の出現のパターンを見る限り、これは一種のフラッシュバックの形式をとっていると考えていいであろう。フラッシュバックとは、PTSDの症状に特徴的とされ、ある種のトラウマをその時の知覚や感情とともにまざまざと再体験することである。そのフラッシュバックが「人格ごと生じる」という現象として、この子供の人格の出現を理解することが出来るだろう。
これらの子供人格の出現のパターンを見る限り、これは一種のフラッシュバックの形式をとっていると考えていいであろう。フラッシュバックとは、PTSDの症状に特徴的とされ、ある種のトラウマをその時の知覚や感情とともにまざまざと再体験することである。そのフラッシュバックが「人格ごと生じる」という現象として、この子供の人格の出現を理解することが出来るだろう。
他方ではいつも陽気にかつ無邪気にふるまう子供人格に出会うこともまれではない。別の人格を呼び出そうとDIDの方に協力を呼び掛けると、それとは異なった子供の人格が代わりに、決まり悪そうな表情で出てくるということがある。あたかもその子供の人格は治療者と遊ぶ機会を待ち望み、呼ばれていた人格の代わりに出てきたかの印象を受ける。そのような様子で出現する子供の人格が深刻なトラウマを担っているかは定かでない場合も少なくない。特にその人格が他人との接触を求め、一緒に遊ぶことで喜びを表現するような場合には、その子供人格はそのDIDの方が幼少時に甘えや遊びを十分に体験できなかったことの代償と思えることも少なくないのである。
子供の人格への応対
「子供の人格が出たらどうしたらいいのですか?」という問いは、患者の家族からも、療法家からも頻繁に問われる。そこには二つの問いが含まれているといってよい。一つはこちらも相手を子供と見なして接するべきか否か、それとも大人が演じているものとして対応するべきかという問いであり、もう一つは子供の相手をまともにすることにより、子供の出現が定着してしまうのではないかという問いである。
この両方の問いは、どちらも解離の本質に迫り、かつ非常に大きな誤解を伴った問いと言えるだろう。まずは最初の問いである。あくまでも子どもとして接するべきであろうか?
まず私自身としては、「もちろん子供として接するべきである」と言いたい。子供の人格の出現は、例えていうならば、ある患者さんが治療者と話していて、突然その患者さんの娘が入れ替わったようなものである。そのような場合、治療者はどうするべきだろうか。
その時に治療者がその子供に対して、「大人が演じているものとして」対応するとしたら、「あなたは子供のように私に甘えたいんですね。」となるであろうが、その子供は何のことが分からなくてきょとんとした目をするだけだろう。話しかけているのは母親に対してではなく、あくまでも子供自身に対してだからである。
ただし私のこのたとえでは、子供の横に母親がいるというところが重要である。実際に子供の人格が登場する時に、背後に大人の人格が見え隠れすることが多い。やはり子供の人格だけでは心配ということだろうか。子供の人格が前面に出ていて、大人の人格が後ろで観察しているという場合も多い。するとその大人の人格は治療者の様子を見て「ああ、この治療者は私の子供の人格のことを受け入れてくれないようね。じゃ私が代わらなくちゃ。」ということになったりもする。ここにはその治療者に対する「気遣い」すらありうる。そして子供の人格が引っ込んで大人の人格が再び登場すると、治療者はこう言うかもしれない。「多重人格と言われる人たちの人格部分、例えば子供の人格は、それを扱うことで出続けるのです。私は扱わない主義なので子供の人格などは出てきません。その意味でDIDは医原性ともいえるのです。」。子供の人格がこの様に時には中途半端で、治療者の対応の仕方に応じて変わることは、一部の治療者の解離現象に対する無理解を助長することにもつながるのである。
その時に治療者がその子供に対して、「大人が演じているものとして」対応するとしたら、「あなたは子供のように私に甘えたいんですね。」となるであろうが、その子供は何のことが分からなくてきょとんとした目をするだけだろう。話しかけているのは母親に対してではなく、あくまでも子供自身に対してだからである。
ただし私のこのたとえでは、子供の横に母親がいるというところが重要である。実際に子供の人格が登場する時に、背後に大人の人格が見え隠れすることが多い。やはり子供の人格だけでは心配ということだろうか。子供の人格が前面に出ていて、大人の人格が後ろで観察しているという場合も多い。するとその大人の人格は治療者の様子を見て「ああ、この治療者は私の子供の人格のことを受け入れてくれないようね。じゃ私が代わらなくちゃ。」ということになったりもする。ここにはその治療者に対する「気遣い」すらありうる。そして子供の人格が引っ込んで大人の人格が再び登場すると、治療者はこう言うかもしれない。「多重人格と言われる人たちの人格部分、例えば子供の人格は、それを扱うことで出続けるのです。私は扱わない主義なので子供の人格などは出てきません。その意味でDIDは医原性ともいえるのです。」。子供の人格がこの様に時には中途半端で、治療者の対応の仕方に応じて変わることは、一部の治療者の解離現象に対する無理解を助長することにもつながるのである。
子供の人格に応対する時のもう一つの懸念を思い出してみよう。それは「あからさまに子供の人格を相手にすることにより、子供の出現が定着してしまうのではないか」というものであった。実はこの問いに対する答えは微妙なものとなる。それは確かに場合によっては、そのようなかかわりにより短期的にではあれ子供の出現が「定着」してしまう可能性があるからだ。そしての定着の仕方によってはそれが本人のために好かったり悪かったりもするのである。
子供の人格とは、おそらくその人の中でまだ扱われ切れていない部分という意味を持つ。その人が子供時代に表現できなかったものが残っていると考えてだいたいは間違いがないだろう。DIDの方の多くは幼少時に子供らしさや甘えを十分に表現できていない。これは臨床で彼女たちに会っていて持つ印象である。そしてそのような患者さんたちの子供時代としては、幼らしさや我儘を表現することが抑圧された厳しい生育環境を想像することが出来る。
ただし例外と見られる場合もあるようだ。DIDの方の母親が「この子は小さいころから頑固で自己主張が強いという一面を持っていました」と話すことがあるのである。このようなことからも子供人格の成因について安易に憶測することには多大な危険が伴う。すぐにでも両親の批判が始まってしまいかねないからだ。だからここでは一般化した言い方を用いて、「子供の人格は一般的に自己表現を求めて出てくると考えるべきだ」という程度に考えておこう。この表現であればほぼ妥当であると考えられるからである。そして自己表現の機会が必要なくなった子供の人格には冬眠という手段が残されているからである。
さてあるDIDの方Aさんが、ある程度受容な人、例えば恋人Bさんに出会い、デート場面で子供人格Aちゃんが出てくるとしよう。(その受容的な人とは治療者でもパートナーでも友達でもいい。でもここでは一応恋人を想定する。)AちゃんはBさんと仲良くなり、しばしばBさんがいる時に出て来て、遊びをせがむようになる。子供の人格の出現が「定着」した状態と考えていいだろう。するとBさんにとっては恋人と会う時間にその子供の相手をすることになる。彼はそれを不都合と感じるかもしれない。それがBさんにとって好ましくない状況であり、BさんがAちゃんの主人格Aさんに会いたいと思う気持ちを対象なりとも失わせるとしたら、Aさんにとっても不都合なことになろう。
もちろんBさんがAちゃんの出現を歓迎するか、少なくとも受容的な態度で接する場合もあるだろう。そしてそれがAさんのBさんへの信頼を増すことになり、二人の仲がより親密になるとしたら、結果的にこの「定着」は悪くなかったということにもなるのだ。
ただし例外と見られる場合もあるようだ。DIDの方の母親が「この子は小さいころから頑固で自己主張が強いという一面を持っていました」と話すことがあるのである。このようなことからも子供人格の成因について安易に憶測することには多大な危険が伴う。すぐにでも両親の批判が始まってしまいかねないからだ。だからここでは一般化した言い方を用いて、「子供の人格は一般的に自己表現を求めて出てくると考えるべきだ」という程度に考えておこう。この表現であればほぼ妥当であると考えられるからである。そして自己表現の機会が必要なくなった子供の人格には冬眠という手段が残されているからである。
さてあるDIDの方Aさんが、ある程度受容な人、例えば恋人Bさんに出会い、デート場面で子供人格Aちゃんが出てくるとしよう。(その受容的な人とは治療者でもパートナーでも友達でもいい。でもここでは一応恋人を想定する。)AちゃんはBさんと仲良くなり、しばしばBさんがいる時に出て来て、遊びをせがむようになる。子供の人格の出現が「定着」した状態と考えていいだろう。するとBさんにとっては恋人と会う時間にその子供の相手をすることになる。彼はそれを不都合と感じるかもしれない。それがBさんにとって好ましくない状況であり、BさんがAちゃんの主人格Aさんに会いたいと思う気持ちを対象なりとも失わせるとしたら、Aさんにとっても不都合なことになろう。
もちろんBさんがAちゃんの出現を歓迎するか、少なくとも受容的な態度で接する場合もあるだろう。そしてそれがAさんのBさんへの信頼を増すことになり、二人の仲がより親密になるとしたら、結果的にこの「定着」は悪くなかったということにもなるのだ。
現実にはこのような場合さまざまなケースが考えられる。BさんがAちゃんの出現に寛容な場合が多い印象があるが、時にはAちゃんを全く相手にしようとしなかったり、虐待的であったりするのである。