2014年12月24日水曜日

最新の解離(14)

8)解離と再固定化療法

本章では解離とTRPの関係について考える。そもそも本書は解離性障害に向けられたものであり、再固定化やTRPについてこれまで長々と考察してきたのは、それが解離の治療に役立てる事が出来るかどうかについての検討のための準備であった。
 記憶の改編や再固定化について論じた後に解離性障害について考えると、改めて解離という現象の不思議さを感じる。ABという、互いに健忘障壁のある人格を考え、それに相当する神経ネットワークABを考えてみる。常にこの二つはその人の中で頻繁に興奮しているはずなのに、この二つがつながらず、共鳴もしないのだ! あたかもつながる機会がありながらわざとつながろうとしない二つのネットワーク群、という印象を受けるのである。
 このABの疎通性の欠如はおそらくA,Bの間にシナプスの形成が行われていないという状況とはおそらく違うと私は考える。Aが興奮しているとき、Bは抑制される、という機制がない限り、人格間のスイッチングは起きないのではないかと思う。そう、思考ないし記憶の神経ネットワーク間のつながりは、両者を結ぶ神経線維があるかないか、だけでなくそれが興奮系か抑制系か、という問題も含む、実に複雑な話なのである。以上を前置きとする。

人格部分との出会いはトラウマの再演でもある―トラウマを抱えた子供の人格部分

人格部分との出会いは、しばしば外傷記憶を扱うことを意味する。それは典型的には、子供の人格部分が現れ、いつもおびえて泣き叫ぶという形で出てくるような場合にはなおさらである。その際はその人格部分の出現はトラウマのフラッシュバックと似た現象としてとらえることができる。ただしその場合はフラッシュバックより一つないし二つほど「次元が高い」現象と理解することが出来る。PTSDにおけるフラッシュバックがある種のトラウマの時のシーンの二次元レベルでの、静止画的な再現とすると、子供人格の出現はそれが継時的な動画のようであり、その時の自分が舞い戻っているという、より複合的な現象だからである。またこのことは、PTSDのフラッシュバックも一種の人格交代現象に類似する、という見方を促すことにもなるであろう。このことはいわゆる構造的解離理論の第1次解離という概念が含意していることでもある。(この理論では、PTSDもやはり解離として理解するのが特徴である。)
 子供人格がトラウマを抱えている場合、その人格に伴ってそのシーンがいつも同じ形で反復するという印象を受ける。ただし子供の人格にはとても無邪気で創造的でクリエイティブな振る舞いを示すものもある。一見明白なトラウマを抱えているわけではなく、ただ遊ぶことを目的に出てくるように見える子供たちであるが、臨床上はこちらに出会うことの方がむしろ多い。彼らの目的は何であろうか?おそらくこちらはトラウマを背負ったこともの人格部分とは多少なりとも異なる由来を持つ可能性がある。こちらはむしろ愛着障害に由来するのではないか。のびのびと甘え、遊ぶ体験を実際には持てず、ファンタジーの中でのみそれが実現していた場合、それもまた子供の人格部分として隔離されてる可能性があるのだ。ただし最近用いられる「愛着トラウマ」という表現を用いるならば、こちらもまたトラウマ由来ということが出来るかもしれない。
さて私がこの章で扱いたいのは、これまで考察してきたTRPを解離性障害に応用する可能性についてである。そこでTRPについて少し復習しよう。私たちが学んだのは、トラウマ記憶がそこに流れている確信的な考えとともに、それとミスマッチとなるような思考を隣接させることで、再固定化が起こるということであった。そして前章ではさまざまな例を見たわけだが、そこで提示された症例はどれも、ある種の文章化しうるような思考内容を抽出し、それをインデックスカードに書いて宿題として何度も声に出して読んできてもらうという形式をとっていた。その意味ではかなり認知療法的な手法ともいえる。
 しかし解離の場合にはおそらく通常の認知療法的な手法はあまり通用しない可能性がある。インデックスカードを用いた宿題が意味を持つのは、それが一般して一つの人格により行われていることを前提としている。しかしDIDの場合には事情が異なる。ある人格Aが学んだ内容を人格BCは把握していない可能性があるのだ。そのためにたとえば人格Aに対して、あるいはBCに対して個別にこのTRPのプロセスを行っていくことになる。そしてその具体的な手順としては、おそらく考えを文章化する、という形ではなく、より体験的、実践的なセッションになるはずである。
 例えば第(6)章で紹介したケースDを思い出していただきたい。Bさんは20代後半の女性で、閉所恐怖症があり、車に乗っていて渋滞に巻き込まれると、胸のあたりがざわざわしてくる、というあのケースだ。Dさんの場合の治療者は、その状況を思い出してもらい、そこでイメージの中で新たな行動に出てもらうことでその記憶の再固定化につなげた。もちろんこの例で渋滞に巻き込まれたDさんは人格部分ではない。しかしそれはトラウマの再現であり、それを体験しているDさんはいつもとは異なる心の在り方をしているはずだ。そしてこのような手法を、DIDにおいて傷つきを体験している人格部分について応用することができるであろう。
 ここであるDIDの患者Aさんを考え、そのトラウマを負った子供の人格Aちゃんを考える。Aちゃんは幼少時に野犬に襲われて瀕死の重傷を負ったのである。するとその人格が出て反しているときにそれを想起してもらい、Aちゃんが「こうすればよかった」というイメージを浮かべ、さらには実行したつもりになってもらうという作業がもし可能であれば、それは再固定化につながる可能性がある。たとえばその犬に対して突然魔法の剣を取り出して斬り捨てる、ドラえもんに登場してもらい、撃退してもらうなどでもいいであろう。
このようなプロセスの際、そのような作業を行うためにAちゃんを呼び出すか否か、という問題があるが、もちろんAちゃんが「眠った子」である場合に「起こす」必要はないであろう。その外傷記憶は再固定を待つまでもなく風化しかけている可能性があり、その場合に新たに呼び起こすことは治療的とは言えないからだ。

一見普通の(ANP的な)子供人格とのかかわり

トラウマを負ったAちゃんのような子供人格とは別に、そうでない子供人格、遊びを求めて出てくるような子供人格とのかかわりは、再固定化とどのような関係があるのであろうか?
 ここでバンデアハート先生たちによる「構造的解離理論」に基づけば、出現した時に一見普通にふるまう人格は「ANP的」、つまり Apparently Normal Part (一見正常な人格部分)としての性質として分類されるのであるが、ここではどのように呼ぶかはさほど重要ではない。ともかくもこの一見遊び盛りの子供人格Aちゃんについて考えてみる。すでに私はかつての著書で、「子供の人格をどのように扱うのか?」というテーマについて幾度となく扱ったわけであるが、その一つの扱い方は「遊ぶ」ということであった。これがおそらく妥当である一つの理由は、子供の成長ということにある。Aちゃんの主人格は、おそらく養育上あまり「遊べる」環境になかったことは多くの患者の伝えるところから推察される。実際に「遊ぶ」かかわりが続くにしたがって、ケースによっては言語能力が発達し、書く字も達者になり、遊びもより成熟したものへと変っていき、「遊びたい」という願望も軽減していくことはよくある。
これとTRPとはどう関係するのだろうか?おそらく「遊んでいいんだ!」「自分らしく自由に振舞っても怒られないんだ!」という体験が再固定化に必要なミスマッチなのだろうと私は考える。
 あるDIDの方から、「小さいころ幼稚園で普通に遊べても、家に帰ると決して同じような振る舞いが出来ないし、そもそもそのような発想が湧かなかったということに気がついた」という話を聞いた。あるいは「小さいころは女の子であるにもかかわらず、決して人形やおままごとの遊びをさせてもらえず、人形も買ってもらえず、常に男の子として振舞うことを強制された」という方の話も聞いた。親といることである特殊な振る舞いしか許されず、それ以外を常に抑制しなくてはならないという家庭環境は決して少なくない。するとそれが許されるような体験はおおむねミスマッチとして体験される可能性があるのである。そしてそれが解離の患者さんの場合に特別に治療的な意味を持つのであろう。
 
子供人格においてなぜ遊ぶことが治療的かについて、明確な答え方はできない。しかしひとつ臨床的な印象を述べるならば、子供人格の「気が済む」のであり、「思い残すことなく大人になれる」という感覚が生まれるのではないか、ということだ。解離性障害の治療においてしばしば問題となる、この「思い残し」とは何か?そこにこだわりがあるために、あたかも浮かばれない霊のように居続ける子供の人格、とたとえることも出来よう。一つ言えるのは、それが子供の人格の、ある表現されることのなかった部分に関連しているであろうということだ。「お母さんに甘えたい」「わがままを言いたい」「お人形と遊びたい」という願望は、おそらく子供時代には本人にも意識されることなく、したがって表現されることもなかった。多くの子供の場合、甘えたくても甘えられない事情があれば、その気持ちは抑圧という形をとることで処理をされるのであろう。しかしそれが時には別の、解離という形をとって処理される場合もある。そしてその処理のされ方が、ちょうど神経回路における「つながっていない」状態を形成する。つまり「わがままを言いたい」は通常の子供が行う思考活動や記憶の形成とは隔離された形で残っていく。「人形をねだる」という発想はそもそも日常生活における母親とのかかわりで、わいてこない。そこに治療者が表れて「遊んでもいいんだよ」と伝えることは、ミスマッチであると同時に通常の思考過程とその思考や願望を「つなげる」意味を持つのである。

解離のTRPに必要な心構え―解離や人格交代を危険視しないこと

解離における再固定化の問題を扱う上で、改めて提言したいことがある。それは、解離を必要以上に危険視しないことの重要さである。
 日米での臨床を通してしばしば出会ったのは、解離性健忘に対するかなり偏った考え方を持つ臨床家(心理士、精神科医)である。彼らは患者がある事柄についての健忘を起こしていると知ると、基本的には患者にその記憶内容に触れさせないようにする傾向にある。
 あるケースは突然職場から失踪し、数日後に町を徘徊しているところを保護された際には、過去3か月間の記憶がなかった。彼は救急搬送されて身体的、神経内科的には何も問題がないことがわかった後、精神科の入院病棟に移された。そこでは基本的に過去のことを伝えることが控えられた。とくに失踪前にあったという職場での上司との確執については、それが患者の耳に入らないように特別に「配慮」されたという。結局記憶は戻らず、また器質的な異常も見つからずに3か月後に退院となった。
 このような形での精神科による解離性遁走の扱いは比較的よく耳にする。治療法がどこにも明確に書かれてはいない以上、精神科医が勘に頼ってやるしかない。その結果として解離体験をいかに「防ぐ」かに重点が置かれるのである。
 もちろん入院中は患者に過去の情報を全く耳に入れないわけにいかないので、徐々に患者を現在の生活状況に関する情報に慣らしていくわけであるが、大体数週間は猶予期間に充て入院を継続し、おそらく何も明らかな異常が見つからないままに器質的な疾患の除外を続けるのみで、その間何ら具体的な治療は行われないことになる。その際過去の出来事から遠ざける根拠となるのは、「解離性健忘はストレスやトラウマから逃れるための機制だから、その時のことを思い出させることで、再び遁走が起きてしまうかもしれない。」という理屈である。
 このように解離を危険視し、それを敬遠する傾向は臨床家の間できわめて根深い。心を扱う人々が、特に医学的な知識が乏しい場合に一番陥りやすいのは心因論である。ある心の現象には、それが起きる心理的な理由があり、主として何かから身を守る為、防衛の為にそれを用いるが、時にそれが破局的な結果をもたらすのだという発想。これが解離性健忘にも同様に適用される。
 しかし解離性健忘が起きるタイミングからは、漠然と何らかの心因はうかがえても、それ以外は偶発事、アクシデントとしか理解できない生じ方をすることもまた多い。解離はそれを一つの現象としては捉えても、その再発を恐れるあまり必要な情報さえ伝えないことは患者の社会復帰を遅らせることにつながる可能性がある。

おそらく解離という現象には、その人の中枢神経系にとっての安全装置というニュアンスはあるだろう。それが生じることによって当座の体験を回避することに何らかの意味があったと考えるべきであろう。しかしその生じ方はまた偶発的であり、個別的である。それはそれが生じるようなあらゆる手段を講じたとしても起きる時は起きる。解離が顕著なトラウマに際して生じる場合以外は、それを予見することが非常に難しい場合も多い。それでも無理に解離を回避しようとすると、必然的にそれを生む可能性のある日常生活上のストレスやトラウマに対して腫れ物に触るような態度を示すことになる。しかし解離症状に必要なのは、それが日常生活に支障をきたす形で起きる際にはそれを扱わざるを得ないという、ある意味では自明な姿勢である。