2014年12月23日火曜日

最新の解離(13)


デブリーフィングの問題から学ぶこと―新しいトラウマ記憶と古いトラウマ記憶

このデブリーフィングの問題をもう少し臨床的に考え直してみよう。というのもCISDが有害であるという結論は、私たちの日常臨床的な発想とはかなり異なるからだ。またもちろんこの話が、本章ですでに述べた、つらい出来事を話すことで気が楽になるという例とは矛盾していることは明らかである。そしてこの問題はトラウマを扱う際の治療者の心にも一つのジレンマを生んでいるのは確かなことなのだ。なぜつらいことがあった時にすぐに話せば楽になる場合があるのに、グループでデブリーフィングをするのはよくないとされているのだろうか?
実は私は、デブリーフィングでトラウマ記憶が悪化するのは、実はほんの一部の例であろうと考えている。一部の例では確かに話すことで「レコード盤の凹凸がさらに深まる」という事態が起きるのであろう。しかしそれ以外の例ではいい意味での記憶の改編が生じることもまた多いはずだ。さもなければトラウマを体験した私たちはだれも、少なくともその直後の一定の期間は、一切それを口外しないことでさらなるトラウマを回避するであろう。ところがつらい出来事を打ち明けるということはあまりに頻繁に、しかも当たり前のように私たちが行うことであり、それが事実多くの場合に助けとなっているということにも疑う余地はないであろう。私の考えでは、デブリーフィングに関する教訓は、「トラウマの直後に体験を話すことを促すことで、その人のトラウマ記憶がより苦痛を伴うものとなる場合がある」ということでしかない。極論をするならば、トラウマの直後につらい気持ちを打ち明けたい人を「ダメですよ、デプリーフィングになってしまいますから」と言って拒否するとしたら、そのことでかえって問題が生じるものと思う。
デブリーフィングの問題が端的に教えてくれているのは、私たちはおそらくトラウマ記憶を、新鮮なそれと陳旧性のそれとに分けて考える必要がある、ということだ。確かにトラウマが生じて間もない記憶の扱いには気をつけなくてはならない。彼らに「詳細な描写を求めること」には慎重にならなくてはならない。しかし同じことをトラウマを受けて1年以上経った患者さんに当てはめる事が出来るだろうか?それではそもそもエクスポージャー療法(暴露療法)が一切成り立たないどころか、むしろ非治療的に働いてしまいかねない。 
常識的に私たちが知っているのは、時間がたったトラウマは、それを語らせることでそれが深刻な形でよみがえるということは一般的には起きない、と言うことだ。ここで「一般的には」と断ったのには重要な意味がある。例外も確かにあるからだ。つらい体験を語ることは、その人の気持ちを暗くし、絶望的な気持ちを一時的にではあれよみがえらせる。治療場面でそのような状況に遭遇するのは治療者にも胸の痛む体験だ。しかし通常は、その話題から離れることで患者の表情も戻っていく。時間が経った記憶は基本的にはその深刻さを悪化させることはないのだ。あくまでもその記憶が形成された直後は事情が違う。
 ではいつまでがその「直後」と言えるのだろうか?おそらく明確な説はまだないのであろう。可能性としては数日間~数週間ではないだろうか。この期間は海馬が LTP Long-term potentiation, 長期増強)という状態を経て長期記憶を形成するまでの期間で、それ以降は海馬はそれを大脳皮質の各場所に手渡してしまう。つまりこの期間以内なら、記憶はまだ海馬にとどまっている状態である。海馬とは興味深い器官であり、脳においては例外的に細胞が常に再生していることが知られる。記憶を残した鋳型自体が数日間で消えていくのだ。以前にレコード盤の比喩を用いたが、トラウマを受けた直後のレコード盤は海馬の歯状核という部分に相当するのである。ここのレコード盤は少し変っていて、それがレコード針でなぞられることで(つまり「詳細な描写を求めることで」)その刻印が深くなっていくという構造になるのだろう。そしてそれが深ければ深いほど、数日以内に皮質に手渡す際の記憶の鮮明さや強度も高まるというわけである。

記憶の再固定で起きていること―「補助線」仮説

再び記憶の再固定化の問題に戻り、その際脳の中で起きていることに関する私の仮説を示したい。それは私が「補助線」仮説とでもいうべきものである。幾何学で補助線を一本引くと見えなかったものが急に見えてきて、問題が一挙に解決するように、脳においてもわずかな神経回路の疎通が、ある種の記憶や思考内容の全体の質を変えるということが起きるのではないか。そしてそれが記憶の改編や再固定化で生じているのではないか、というのが私の考えである。
そもそも記憶の改編や再固定化とは、それほど特別な現象なのだろうか? たとえば気付きとか、「あ、そうか!」体験で起きていることとあまり変わらないのではないだろうか、という疑問も持っている。これについて少し考えて見よう。
 そもそも私たちがある事柄について決して忘れないような体験をする時、脳の中で何が起きているのか? 例えば長い間考えあぐねていた問題にあるヒントが与えられ、そこから一気にその問題が解決したとしよう。いわゆる「あ、そうか!」体験である。これは一度それが生じた場合には、二度とそれを忘れることはない性質のものとなりうる。その意味ではその問題に関する思考そのものが極めて迅速に改編され、ないしは再固定された例と考えることが出来るだろう。
 この例で思考が改編ないし再固定化された際の脳の中の機序は、ある意味では容易に想像できることだ。ちょうど円環の最後がつながったような状態である。神経回路ABがすでに形成されて、あとはABをつなぐほんの一本の短い回路が形成された状態と考えられるであろう。それにより主観的には「ああ、なんだ、AとはBのことなのだ」あるいは「ああ、ABを引き起こしたのだ」という体験となるだろう。その後には「AとはBである」という説明を繰り返し聞く必要がない。ほんの一回だけ、それも耳元でささやかれるだけでも、「ABだ」はそれ以降は再び学習をする必要がないほどに迅速な効果を及ぼす。学習という意味ではこれほど効率のいいものはない。それを私が比喩的に「補助線」と呼んでいるのである。
ひとつのわかりやすい例を挙げれば、私の主張が理解しやすくなるだろう。たとえばあなたの職場にAさんという同僚がいるとする。彼の振る舞いや言葉遣いはどこかで聞いたような気がするが、思い出せない。懐かしいが過去に会った覚えなどはない。ところがある日AさんがX県出身であることを知る。彼の気性や言葉に見られるちょっとした訛りは、以前に親しくしていたBさんに似ているのだ。そしてBさんが確かX県出身と聞いていた。そこであなたはX県人としてのAさんという新たな思考を得る。そしてそれまで持っていたさまざまな疑問が氷解することになる。
X県人としてのAさん」という思考の持つ量は膨大である。それはその事実を知らされるまではあなたの頭に存在しなかった。しかしどうしてそれがほんの一瞬にして、しかもほぼ半永久的に形成されるのであろうか?私たちは4ケタの番号を記憶するのでさえ、何度も復唱しなくてはならないのである。それは何よりAさんに関する様々な情報はすでに蓄積されており、またX県出身のBさんから体験していた独特の雰囲気もすでに成立していた。あとは両者の間に一本の回路が形成されただけだからである。ちょうど水をたたえた二つのダムの間に掘られたトンネルのようなものだ。シャベルによる最後のひと堀りで両者がつながる。するとそこには一つづきのダムが成立することになる。
 ただしもう科学的には思考Pと思考Qがつながる、ということはダムがつながる以上の大きなインパクトを与えることになる。それはPQという二つの神経回路が「同期化」するようになるということである。ある思考内容が想起されているとき、それに相当する神経回路は興奮した状態になるが、それが同期化しているということが大切である。すなわちそれがひと塊として興奮し、少なくとも部分的にはその興奮の波形が一致することで(それぞれのサインカーブの位相が一致していることで)、その細部にまで思い至ることができるのであろう。Aさんを思い浮かべているとき、例えば彼の顔を想起した直後に声を想起することは比較的容易であろうし、彼の過去の経歴について聞き及んでいることも同時に思い出されるであろう。それはAさんに関係した様々な情報や記憶に関する回路が同時に励起しているからこそ可能なのである。
 さてPQという回路につながりがないということは、Pの興奮に際してQが同時に興奮しない、つまり同時に想起できないということだ。そして両者につながりができるということは、Pの興奮がQの興奮を呼び、ないしはその逆のことが生じ、それが位相を同じくするということだ。それによりたとえばAさんの顔を思い浮かべても、その会話の記憶を掘り起こしても、それが「X県人」という思考と同時に興奮するようになる。これはおそらくこれまでのAさんの記憶に全く新たな色彩を与えることになる。「Aさんがあの時あのような表情をしたのは、X県人の特徴だったのだ」という形で、である。
同様の例をもう一つ挙げておこう。あなたの職場に新しく入った同僚Cさん。どうもいい印象がない。面と向かって話したことは一度もないが、いつも人を見下すような、自信ありげな強い口調がいけ好かないと感じている。ところがある時、そのCさんが、Y県のある高校の出身であることを知った。あなたもY県出身である。「なんだ、同郷ではないか。しかも同じ地元だ」それに話を聞くと学年もあなたとあまり違わず、ということはどこかですれ違っていた可能性もある。すると途端にCさんに対する印象が違って来る。自分はY県人出身の人間はとっつきにくいが悪い人間はいないと思っている。Cさんもぶっきらぼうで言葉は荒っぽいが、人は悪くないのかもしれない。今度飲みに誘ってみよう、と思うようになった。
 この場合CさんとY県人との神経ネットワークは「補助線」的な一本でつながったことになる。するとCさんのイメージは、Y県人というイメージに強く影響を受けることになり、あなたのCさんに対する心証はガラッと変わってしまうことになるだろう。

ところでこのような神経ネットワークの成立は、それまでの非外傷的な体験を外傷体験に変えてしまうという作用も有する。そのような例を米国滞在中に聞いた。ある女性(Eさん、としよう)はある男性 F に付きまとわれて、危うく性被害に遭うという体験を持っていた。彼女はそれに傷つきはしたが、さほど深刻な反応は起こさなかった。ところが後になって捕まった男性 F は、何人かの女性に性的暴行を加えたあげくに殺害していたということがわかり、それが大きく報道された。その報道に接して、自分にトラウマを負わせた男が実は殺人犯であったことを知った E さんは大きなショックを受け、「一歩間違えれば自分は殺されるところだった」と思ったという。その時からフラッシュバックや感覚鈍麻などを伴ったPTSD 症状が始まったのだ。
この E さんに関して生じたのは以下のことだろう。F に付きまとわれた記憶はネットワークを形成していたが、それ自身はさほどトウラマにはなっていなかった。しかし F が殺人者と知り、その記憶のネットワークが興奮するときは殺人者という恐ろしいイメージとともに興奮することで、その記憶の一つ一つが異なった意味合いを持つようになった。その結果として付きまとわれの記憶はことごとくフラッシュバックを伴うほどに外傷性の意味合いを持ってしまったのである。

神経回路同士のつながりが不完全な場合
これらの三つの例においては神経回路の疎通性の成立ということを、記憶やイメージの改編の仕組みとして考えた。この場合その記憶の改編はかなり具体的な脳のレベルでのシナプスの形成によるものと考えることができる。なぜならAさんがX県人であるという思考、CさんがY県人であるという思考、Eさんに被害を与えたFは殺人者であったという思考は、それ自身がかなり具体的な事実認定であり、そのシナプスの形成はその根拠が保障されているからである。それはたとえばAさんがX県人ではないか、と単に想像しているだけであったり、CさんがY県人ではないかという噂を聞いただけであるという場合とはかなり異なる。それらの場合はいっぺんに相手に対する印象が変わるということはないであろう。それ等の可能性はAさんやCさんに対するそのほかの様々な属性と同様、不確実なものであるが、それはAさんについてそれ以外にもたくさんある不可実な可能性と同様である。それらとはすなわちAさんが「本当は悪い人間ではない可能性」とか、「何らかの理由で私に恨みを持っている可能性」「ゲイである可能性」などと同様である。
 このような場合は、それらに相当する神経回路PQとのつながりはどうなっているのであろうか?私の推測ではあるが、そのつながりは不完全で、シナプス形成はかなり弱い(細い?)ことになるであろう。すなわちPが興奮しているときのQの共鳴の仕方が十分でなく、それは主観的にそのつながりの弱さを、つまりはその結びつきが可能態でしかないことを感じさせるのであろう。
たとえば次のような思考実験をしてみる。同僚CさんがY県出身であるということを、しばらく前にどこかで聞いていた気がするが思い出せない、という状況である。その時はまだCさんに出会っていず、その人となりに特に関心もなかった。そしてその新人の出身地が何らかの形で伝えられた時から時間がたっているために、その記憶もすでにあいまいになっているのである。この場合はそれを聞いていた時には記憶をしていた内容が「消去」されかかっていた状況と考えると、シナプスの結合が弱くなっていると考えることができる。そう、「~かもしれない」と想像している状況とあまり変わらないのだ。

この時の神経ネットワークPQとの関係は微妙である。両者はつながっているようでつながっていない。それは想像上一時的につなげることはできるが、いわばその時だけ臨時に梯子をかけたような状態であり、実際のシナプス結合には至らない。あなたはAさんの仕草からX県人ではないか、とふと思ったとする。実際にそうだとすると納得のいくような仕草が多々見られると考える。しかし「そんなバカな」「俺は何を夢想しているんだろう」という形で打ち消した途端、一時的に共鳴していた神経回路PQはすぐその共鳴をやめてしまう。想像していた時はPQを一時的につなげてみただけであり、それは実際のシナプス形成にはつながらない。もしそれがシナプス形成を多少なりとも生むとしたら、AさんがX県人であるということを何度も想像するうちに確信に至ることにもなりかねないが、その種の精神病理が存在することは論を待たないとしても、ふつうはそれは生じないのである。