2014年12月22日月曜日

最新の解離(12)

昨日はJSSTD(日本トラウマ解離研究会)の集まりが市谷であった。田中究先生、柴山先生、いずれも非常に啓発されたすばらしい発表だった。

7)トラウマ記憶と解離の治療(2

章を改めて、いったんBruce Eckerらの著書から離れ、記憶の改編や再固定化-解離の治療に向けて考えてみる
まず記憶の再固定化ということについてまず強調しておきたいことがある。それは記憶が改編されるプロセスは、前章で紹介したTRPのようなある特殊な治療状況以外でも常に起きている可能性があるということだ。記憶の改編自体は日常生活でも起きている可能性があるだけでなく、私たちはその原理をおそらくは知らず知らずに応用しながら、つらい体験を乗り切っているのである。
 ちなみに私がここで「記憶の改編」という言い方をして、「再固定化」と限定していないのは、両者を区別して扱うためである。これまでの例で見た再固定化とは、ある程度長期的に保存されている記憶についてのみ扱っているからである。しかし記憶を扱うことでその痛みその他の心への影響力が変わる場合には、それが再固定化とは異なるプロセスが生じている可能性がある。そこで後者については記憶の改編、という言い方をしておく。
 ある苦痛な体験を持った後、私たちは多くの場合、それを誰かに話したくなる。胸の内を誰かに話して、すっきりしたいと思う。おそらく過去にも似た体験があり、人に話すことで苦しみがある程度は楽になるということが学習されているのだろう。時にはその話し相手は唯一の信頼できる友人であろうし、別の場合には、客観的な立場にあり秘密を守ってくれるようなカウンセラーだったりする。あるいは身近りにいて、手っ取り早く話を聞いてくれる誰でもいいのかもしれない。しかしとりあえずは誰かの前で自分の体験を話そうとする可能性が高い。それはなぜだろうか?
 結論から言えば、人に話すという行為により、その機序はよくわからないまでも、記憶の改編が生じ、その痛みが軽減する可能性が高いということだ。この現象は、忘却とは無縁の出来事であるということも確かであろう。忘却とは時間の経過とともに記憶を形成する神経ネットワークのシナプスの結びつきが低下し、あるいは一部が消失していくことである。たとえば受験に失敗したというつらい記憶は、半年後にはかなり軽減していることになるだろうが、その場合にはこの忘却が大きく影響していることになる。しかしその体験を受験の失敗の直後に人に話すことは、むしろその体験を言語的に再構成することで、シナプス間の結びつきを強めることにすらなるのであり、忘却とはむしろ逆の現象である。明らかに忘却とは別の何かが記憶に生じ、それが苦痛を弱めているのである。
私たちはしばしば、「あの人のあの一言により救われ、楽になれた」という類のエピソードを聞くことがある。引き続き受験の失敗の例を用いるならば、誰かから「でもあなたは以前にその受験はダメもとだ、と言っていましたよね」と言われたとする。そしてそもそもしばらく前までは失敗しても当然だという覚悟を持っていたことを想起して、その受験の失敗の記憶がより受け入れやすくなるかもしれない。これも一つの記憶の改編の例であろう。受験の失敗の記憶が、「でももともと受かる気がしていなかったのだ」という認識と結びつくことで、より受け入れやすくなったと理解されるだろう。
 本来他人につらい体験を持ちかけられたときのために、人は様々な慰めの言葉のレパートリーを持っているものである。相談を持ち掛けられた方も、相手にとって少しでも役に立とうという気持ちは強い。そこでさまざまな声のかけ方をする。先ほどの「ダメもとだったと考えればいい」以外にも、「人生、まだやり直しがききますよ。」でも「いいことばかりではないよ。」でも、あるいは「運は後に取っておけばいいだろう。」でもいい。実はそれらのほとんどは気休めにしか過ぎないが、そのうちのどれかが本人にとって心に響く可能性がある。すると「あの一言で楽になった」という印象とともに失敗の記憶が別の色を放つようになるのである。
しかし、話を聞いてくれる相手から特に「気休め」も得られない場合はどうか?相手は黙って聞いているだけであり、ただただ圧倒されて何も新たな考えや発想は与えてもらえないかもしれない。しかしそれでも人は心の痛みを和らげることがある。ではその場合の記憶の改編化はどのように成立するのだろうか?これにはいろいろな可能性があるが、その一つは、そのことを話した時に、目の前の人が自分の気持ちに同一化してくれるという体験ではないだろうか?
 トラウマ的な体験を持った後、私たちはしばしば奇妙な心の状態を体験することがある。それはそれを恐怖とともに体験した自分の方がおかしいのであり、自分がされたことは当たり前であるという心境である。あるいはこれを恐ろしいと感じているのは自分ひとりであり、その意味で自分は徹底して孤独である、という心境になることもある。そのような場合はおそらく一人で壁に向かってその体験を語ったところで、そこに記憶の改編が起きるはずはない。ところが目の前に、自分を理解してくれる人が存在し、自分の感情に保証を与えてくれたり、それに共感してくれるという体験が生じると、それもまた記憶の改編を生むのだろう。
 ただし体験を人に話すことで、それがかえって痛みを伴い、傷を深めることがある。性的トラウマを持った人がそれを警察などで話すことにより、再外傷体験を生むという場合がある。(いわゆる「セカンドレイプ」という表現もある。)話しても誰も理解してくれない体験は、そのような場合に相当するかもしれない。
 他人に話すことで、その相手が心の中でほくそ笑むような場合にも同様の体験が生じる可能性がある。相手が何らかの意味でライバルの位置にある人の場合は、人の失敗に同情しながら、実はその不幸を喜んでいるということもあり得るだろう。実際にトラウマの体験を身近な人に容易に話せないのは、本当に同情の念を持ち、自分と一緒につらさを感じてもらえるかが不明な場合であろう。
それでは次のような場合はどうか。ある患者はレストランで店員に失礼な態度をとられたといって憤慨し、便箋に10枚にわたって抗議文を欠いた。それを翌日店長に渡すつもりだったが、書いた後は意外とすっきりして、「もうどうでもよくなってしまった」という。いったい彼女には何が起きたかは不明である。ただしこのようなことは言えないだろうか?自分は不満を表現した文章を書いた。そうすることで、これを相手に送ることで、すぐにでもその気持ちを伝えることが出来る、という認識が生まれたからではないか。あるいはそれを文字にするという形で外に出したことで、それに形を与え、客観的にみることが出来るようになったということはないだろうか?そしてそれはある意味では、記憶の改編という形をとったのである。ただしもちろんこの手紙を書くという手段が全く意味を持たない人も大勢いるであろうが。
しかしこうなると、記憶の改編はだれにとってどのような形をとるのが理想なのかは、かなり複雑で個別的な問題となるであろう。

再固定化とデブリーフィングの問題

さらに記憶の改編や再固定化のテーマについて考えていくうえで、取り上げなくてはならない問題がある。それは記憶の不安定化の状態が、その記憶の形成された時期との関係で大きく異なるであろうということだ。簡単に言えば、「トラウマの直後の記憶は、取扱注意!」ということになる。
 近年トラウマに関する治療が様々な形で行われる中で、その早期に浮かび上がったのが、デブリーフィングの問題だ。デブリーフィングとは、災害なので多くの人がトラウマを体験した際、被災者がなるべく早期にグループを持ち、トラウマの体験を言葉で分かち合うという試みである。ジェフ・ミッチェルという人により考案され、CISD (critical incident stress debriefing) と名づけられ、米国で一時期盛んに試みられた。しかしそれが必ずしもPTSDの発症を減らすということはなく、かえって逆効果にもなりうることになった。そして現在ではトラウマが生じた際の介入には一定の時間の経過が必要であるということが常識になっている。 
ミッチェルの提唱したいわゆる「CISD」は、もちろんそれが善意のもとに実践されたわけであるが、その有害性が多く指摘されることとなったために、種々のガイドラインがそれを踏まえた記載の仕方をしている。米国の国立PTSDセンターが編集した「Psychological First Aide (PFA)」というガイドラインを見てみよう。これは「兵庫県こころのケアセンター」のスタッフが日本語に訳していて、ネットでも簡単に入手できる。http://www.j-hits.org/psychological/pdf/pfa_complete.pdf
これを読むと随所に被災者の「話を聞きすぎてはいけない」という注意事項が記載されている。つまり心のケアに出向いた人たちが行ないがちな「トラウマについて詳しく語ってもらう」というCISD的な発想への警鐘となっている。たとえば「避けるべき態度 Some Behaviors to Avoid」には7つの項目が挙げられているが、第5、第6項目(私が下線を付け加えてある)はそれに相当する。
1.被災者が体験したことや、いま体験していることを、思いこみで決めつけないでください。
2.災害にあった人すべてがトラウマを受けるとは考えないでください。
3.病理化しないでください。災害に遭った人々が経験したことを考慮すれば、ほとんどの急性反応は了解可能で、予想範囲内のものです。反応を「症状」と呼ばないでください。また、「診断」「病気」「病理」「障害」などの観点から話をしないでください。
4.被災者を弱者とみなし、恩着せがましい態度をとらないでください。あるいはかれらの孤立無援や弱さ、失敗、障害に焦点をあてないでください。それよりも、災害の最中に困っている人を助けるのに役立った行動や、現在他の人に貢献している行動に焦点をあててください。
5.すべての被災者が話をしたがっている、あるいは話をする必要があると考えないでください。しばしば、サポーティブで穏やかな態度でただそばにいることが、人々に安心感を与え、自分で対処できるという感覚を高めます。
6.何があったか尋ねて、詳細を語らせないでください。
7.憶測しないでください。あるいは不正確な情報を提供しないでください。被災者の質問に答えられないときには、事実から学ぶ姿勢で最善を尽くしてください。

さらに「情報を集める」(30ページ~)には、次のような二つの注意事項が織り込まれている。これも同様の趣旨と考えていいだろう。ここも注目していただきたい分について私が下線を施してある。
注意事項:災害でのトラウマ体験に関する情報を明確にしていくときに、詳細な描写を求めることは避けてください。(注:下線岡野)さらに苦痛を与えてしまう可能性があります。起こったことについて話しあうときには、被災者のペースで話を進めてください。トラウマや喪失の体験を詳しく話すよう、圧力をかけてはいけません。逆に、被災者が自らの体験について語りたがることもあります。そのようなときには、いまいちばん役に立つのは、あなたの現在のニーズを知り、今後のケアの計画をたてるのに必要な必要最小限の情報を得ることなのだということを、丁寧に、敬意をもって伝えてください。今後、もっと適切な場で体験を語る機会を設けられることを伝えましょう。
注意事項:次の項目で触れることですが、薬物使用に関する既往、過去のトラウマや喪失、精神的な問題を明らかにしていくときには、まず被災者の現在のニーズに敏感でなくてはなりません。必要もないのに過去のことを尋ねたり、詳細な描写を求めたりすることは避けてください。(注:下線岡野)なぜそれを尋ねるのか、理由を明確に述べましょう。たとえば、「こうした出来事は、以前あった嫌なことを思い出させることがあるのですが」とか、「ストレスに対処するためにアルコールを使う人は、こういう出来事のあとには酒量が増えることがあるので」というように前置きしてください。


このPFAに繰り返しでてくるのが、私が上に示した下線部分に示される次の表現である。
「詳細な描写を求めることは避けてください。」 
 なぜトラウマはそれが生じた直後にはむしろそれについて話すことが害になる可能性があるのだろうか? それはおそらく記憶の改編が、その記憶が形成されて直後とそれからしばらくたった後ではその性質が大きく異なるからであろう。ここで思い切った仮説を設けるならば、あるトラウマ記憶は、直後にそれが語られることでそれの刻印のされ方をより顕著なものにする。例のレコードの比喩を用いるならば、レコード盤に最初の曲が刻印された際、それをすぐに再生するとそれが、さらに深い凹凸により刻印される傾向にあると考えるべきであろう。