自己愛の観点から見た治療者の自己開示
私にとって自己開示の問題は、精神分析に興味を持ち、分析的な臨床を行い、また論文を発表し始めた最初の頃から常に重要なテーマとして頭にあった。匿名性の原則を有する精神分析は、治療者が多くの抑制をしつつ行う治療である。それは通常の日常会話と大きく異なるばかりか、一般的な心理療法とも異なるといっていい。分析的な臨床家はしばしば、通常の会話では起きるであろう自分自身からの応答をいかに押しとどめ、またどのようなときには匿名性の原則に例外を設けて、自己を表現をするかに常に考えをめぐらせていることだろう。
治療者が持ち続ける問題意識はそれにはとどまらないかもしれない。そもそも匿名性の原則は妥当なものなのか。それを遵守しようとしている自分は患者にとってベストな治療を施していることになるのだろうか、などの、より原則的で根本的な疑問を思い浮かべても不思議ではない。
以上のような文脈で私はこの自己開示の問題を考えてきたわけだが、最近かなり以前とは異なる発想を持つようにもなってきた。それは治療者が私の予想を超えて、自己開示を行っているらしいという現状を知ってのことであった。「治療者が匿名性の原則を守りすぎるのはいかがなものか」、という方向から考えることの多かった私が、「自分のことを話しすぎる治療者にどのようにして自制を促すことが出来るのだろうか」」という問題も重要であることに気が付いたのである。そしてそれがどうやら治療者の側の持っている自己愛や自己顕示欲の問題とかなり結びついているらしいと考えるようになった。
本稿の一つの目的は、自己開示の是非を問うことではなく、まず自己開示を広くとらえ直して、そこにどのような種類があり、どのような利点と問題があるかについての見取り図を提供することである。匿名性を守るか、自己開示をするのかは、それらを勘案したうえで、その時々に治療状況で判断されるべきものである。しかしその背景にあるのはこの私の治療者の自己愛という発想である。つまり治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。
以上を前置きにしてさっそく本題に入っていきたい。
治療者の自己開示をめぐる従来の論点
先ず従来の自己開示についての論点について考えたい。基本的な点として理解しなくてはならないのは、自己開示はフロイトによれば「暗示」になってしまうということだ。ここでフロイトが解釈以外のあらゆる介入を「暗示」とみなし、それを非治療的なものとみなしたことを思い出していただきたい。彼にとっては、患者の無意識内容に言及する介入、すなわち「解釈」以外は治療的ではなかったのである。それを彼は一括して「暗示suggestion 」としたのであった。
伝統的な精神分析理論の中での「自己開示」については、それが中立性や禁欲原則に抵触するのではないか?という問題もある。もちろん中立性や禁欲原則が具体的に何を意味するかについては、論者により微妙に異なる可能性がある。しかしいずれにせよ「自己開示」はそれらの原則が示す方向性とは異なる介入であるとみなされることは確かであろう。治療者が自分の考えを伝えることで、その中立的な在り方を損なう可能性はあるであろうし、治療者のことをさらに知りたいという患者の願望を満たしてしまうという意味では禁欲原則にも反するということになる。
伝統的な精神分析理論の中での「自己開示」については、それが中立性や禁欲原則に抵触するのではないか?という問題もある。もちろん中立性や禁欲原則が具体的に何を意味するかについては、論者により微妙に異なる可能性がある。しかしいずれにせよ「自己開示」はそれらの原則が示す方向性とは異なる介入であるとみなされることは確かであろう。治療者が自分の考えを伝えることで、その中立的な在り方を損なう可能性はあるであろうし、治療者のことをさらに知りたいという患者の願望を満たしてしまうという意味では禁欲原則にも反するということになる。
更には自己開示が転移の自由な発展を抑制してしまうのではないかという懸念も唱えられてきた。精神分析では、患者は治療者のことを知らないほどさまざまな想像力を膨らませると考える。例えば治療者の出身地が分からないことで、どこの出身である治療者も想像できることになる。しかしA県出身であることが分かったとしたら、A県出身以外の治療者しか想像できないということになるわけである。
この理屈は自己開示を戒める意図でよく聞かれるが、充分に説得力があるとは私は考えていない。たとえば次のような例と似ているのではないか。「映画やビデオや漫画などは、人の想像力を制限してしまう。ラジオや活字で聞いたり読んだりする本は、映像がない分だけ人の想像力をかきたて、かつ育てるのだ。だから活字の方が私たちにとって有益なのだ・・・・。」このロジックに誤りはないにしても、ではなぜ、私たちは時々、映画やビデオなどの映像に強いインパクトを感じるのだろうか。読書によりインパクトを受けることもあり、映画に影響を受けることもある。ケースバイケースであり、本来そういうものではないだろうか? つまり映像は映像で、それが視聴者の想像力を増強させるという作用を及ぼすこともあるのである。
この理屈は自己開示を戒める意図でよく聞かれるが、充分に説得力があるとは私は考えていない。たとえば次のような例と似ているのではないか。「映画やビデオや漫画などは、人の想像力を制限してしまう。ラジオや活字で聞いたり読んだりする本は、映像がない分だけ人の想像力をかきたて、かつ育てるのだ。だから活字の方が私たちにとって有益なのだ・・・・。」このロジックに誤りはないにしても、ではなぜ、私たちは時々、映画やビデオなどの映像に強いインパクトを感じるのだろうか。読書によりインパクトを受けることもあり、映画に影響を受けることもある。ケースバイケースであり、本来そういうものではないだろうか? つまり映像は映像で、それが視聴者の想像力を増強させるという作用を及ぼすこともあるのである。
転移の話に戻ると、治療者がA県出身であることが何らかの形でわかることで、急に治療者に関するイマジネーションが膨らむこともある。「北海道出身」と聞くことで、北海道に関する様々なイメージが浮かび、それと治療者を結びつけるということがあるだろう。これは何県出身かもわからない段階では生じないことだ。漠然とした情報では、私たちは想像を膨らますことが逆にできないという面もある。このように自己開示は転移を促進される場合もあるのである。