2014年11月19日水曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(7)

「オトナの事情」が5つも重なるとつらいなあ。

4.今後の精神分析に向けて ― 離散的、非力動的な心の在り方の提案

これらを通して浮かび上がってくるのが、私が言うネットワーク的かつモジュール的な脳であり、それを通して生まれてくるのが非力動的な精神分析である。私たちは患者の言葉をまず信じつつ、深読みをせず、様々な離散的な心の在り方に目を向け、そのトラウマに根差した病理を理解しつつ、主としてサポーティブな姿勢で、治療を行っていかなくてはならない。

私がこれまでに示したような内容を踏まえて心/脳を眺めてみよう。脳とは途方もないキャパシティを備えたネットワークである。しかしそれは情報処理を行うだけではなく、判断をし、行動を起こすシステムである。その最終的な目標は生命維持といえるだろう。もちろんリチャード・ドーキンスの言うように、生物の最終目標が自分の遺伝子を後世に伝えることだとしても、動物はそれを知るよしもなく本能に突き動かされる。そこで働いているのは快・不快というスイッチであることはほぼ間違いないであろう。鮭が古巣の川の上流に向かって身をボロボロにしながら遡行するとき、彼らは川上に向かうことによる強烈な快に突き動かされているか、あるいは川下に留まることの苦痛や恐怖に突き動かされているかのどちらかである。そしてそこで出会う様々な敵との戦いに生きながらえるためのシステムが闘争逃避反応であり、それを支えるシステムがル・ドゥの描いた視床―皮質―扁桃核の経路である。
 私たちがこのようにして脳/心の在り方を理解する以上は、生命維持に反する自己破壊本能、つまりフロイトの掲げた死の本能は大胆に無視していいだろう。大脳生理学的な研究の理解は、死の本能を支持するような脳の機関を決して発見したとは言えないからだ。
 ただし私たちは1970年代よりトラウマの精神病理を学んでいる以上、以上に述べた闘争―逃避にもう一つの解離的な反応、つまりフリージング反応があることや、トラウマへの反応としてそれの反復的な体験についての知識を有しており、それがフロイトが死の本能と誤解し多心の病理の正体である可能性がある。
さて生命維持の次に必要なのは生殖であり、私たち人間もそれに対する強い欲動を有している。これは人間に備わった宿命、と考えるよりは、生殖活動に対する欲求が強い私たちが自然に選択されて今日の世界があるわけである。私たちはある意味ではこれまでの人類(あるいは生命全体)の中で絶倫中の絶倫の個体であり、生殖競争の最終予選まで残った者たちである。ただしフロイトのように幼少時の性的欲動を想定する根拠も十分にあるとは言えない。その意味では性愛の持つ意味を重視しつつ、フロイトの性欲論を大幅に棄却しなくてはならないであろう。
さて生存のための情報処理システムとしての脳に戻るが、そこでの活動の大半は無意識的に行われるということになる。それは意識化されるということが、脳が行っている予想にとって例外となるような事態しか意識化されない、というより開始期はそれ以外のことに忙殺されることで情報処理ができなくなると考えるべきであろう。いわば意識は中央処理システムで、端末からの異常のみを拾って決断を下しているようなものだ。しかしその決断さえも、かなり無意識レベルで行われているという見方を私は示した。中央処理システムではそれを承認、追認、ないし理由づけしているにすぎないといっていいであろう。その意味では無意識に圧倒的な意味を与えたフロイトの見方に近いことがわかる。
人は意識に、自主性や創造性を付与するかもしれない。しかしそれさえも大半は無意識的に行われることについては、ベンジャミン・リベなどの研究を示したことで納得して頂けるであろう。
それでは無意識的な決断や創造の生成過程をどのように理解するべきか。ここからは私の考え方であるが、おそらく快感中枢の影響が非常に大きく左右している。何を食するのか、だれと会うのか、週末にどの映画を借りるのか、物事にどのような理解を行うのか。これらはすべて快感中枢におけるドーパミンシステムにより判定される。回転寿司屋に入り、どの皿に手を伸ばすかは、具体的にはどれを食べた場合により多くのドーパミンが分泌されるかによる。この将来の快感の査定を、おそらく人は無意識レベルで、時には意識レベルで行っている。その際何がドーパミンを多く産出するかは、きわめて偶発的で恣意的な部分を含む。もちろん真っ先にマグロを決って注文する人の場合、その意味でドーパミンシステムの決定はゆるぎない。しかし最初に中トロか大トロか、いくつ食べるのか、その間にいつお茶をすするのか、などになってくると、たちまちドーパミンシステムによる決定は恣意的で予測不可能になっていくのである。

このように考えると結局、心とは離散的な在り方をする、という結論に落ち着く。こころは常に首尾一貫した論理を追及しているとは限らない。むしろ無意識≒ネットワークに生じる様々な動きがあり、それがsalient なものとなった時に意識に上る。意識はそれを理由づけする(ことに快感を覚える)という考え方が妥当であろう。
私はここでさらに非力動的な精神分析学という概念を提唱したい。力動精神医学は、そこに防衛や抵抗という概念を色濃く含む。そこにはある種の真実が意識下に存在し、それが表層に出ることに対する防衛が症状形成に関わるという考え方がある。しかしそこにはある種の機械論的、論理的な心の働きが前提となり、そこには象徴解釈などの知的なアプローチにより心の問題の解決を目指すことができるという前提がある。しかしこれまでみたとおり、心の働きは極めて恣意的、不可知的な面を持つ。治療場面は理屈では説明できない様々な行動化やエナクトメントに満ち溢れているのである。

治療論に向けて

ではこのような脳の在り方を受け入れた場合の私たちの治療はどのように変わるのか。
おそらく治療の中核は、患者さんの中に起きているネットワーク間の結びつきをより豊かなものにすることに貢献するということだろう。患者さんの頭の中でAという記憶とBという記憶は結びついていない可能性がある。治療者の中にそれらを結び付ける根拠があるとしたら、その提案は意味を持つだろう。
他方でおそらく私たちがよほど警戒しなくてはならないのは、私たちの持つ理由づけ、「解釈」の傾向である。もちろん解釈が「AB、すなわちABが関連している」という意味で用いられるのであれば、今述べた根拠から治療的な意味を持つであろう。(もちろんABが治療者の単なる思い付きだったり、患者が拒絶したりするなら、意味はないが。) そうではなくて、解釈が「AB、すなわちABだからだ」、という理由づけの文脈で用いられるとしたら、それは注意すべきであろう。フロイトが考えていた心の在り方は理論的で機械的なところがある。夢の象徴解釈などはそれの典型といえる。でも先ほど述べたように、脳の在り方は、離散的、そして非力動的である。

私が最終的に提唱するのは、非力動的な精神分析であり、それは患者の心に起きていることをそのまま受け止め、治療者の心に浮かんだ結びつきについては、その知性化の可能性を注意しつつ患者に提案するという作業である。