2014年11月20日木曜日

汎用性のある精神療法の方法論の構築 (4)


汎用性のある精神療法に欠くことの出来ない倫理則
最後に技法と倫理の両立性について書いておきたい。私がこれまでに述べてきたことは、さまざまな立場を包括するという方略であり、姿勢である。しかしこれらの試みを最終的に包含するのが倫理の問題であると考える。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つと考える。考えてもみよう。汎用的な精神療法の在り方に基づき、関係論的な問題を意識し、しかも脳科学的な見方についてもわきまえる治療者が、実は人間として信用することが出来ないとしたら、どのようなことが起きるだろうか?治療者が技法を、治療原則を、治療構造を駆使して治療を行うものの、それが自分のための治療であったら?
 「治療者が患者の利益を差し置いて自分のために治療をすることなどありえない」、という方もいるかもしれない。しかし基本的には治療的な行為は容易に「利益相反」の問題を生むということを意識しなくてはならない。「あなたは治療が必要ですよ。私のところに通うことを勧めます」には、すでに色濃い利益相反が入り込む可能性がある。
ちなみにこの問題について、かつて私が論じたもの(岡野:精神分析のスキルとは?(2)(精神科 21(3), 296-301, 2012)があるので、その要旨を掲げたい。また精神療法に欠くことの出来ない「倫理則」について、かつて私は30の基本指針を考えて本にした(心理療法/カウンセリング 30の心得』みすず書房、2012年)ので、それも参照していただきたい。
精神分析の理論の発展とは別に進行しているのが、倫理に関する議論の流れである。そして最近の精神分析においては、精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっている。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、インフォームド・コンセントを取りあげるならば、それは伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであるが、チェストナットロッジをを巡る訴訟などを精神分析の立場からの倫理綱領の作成を促すきっかけとなった。それらとしては分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている。
 これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
  他方「汎用性のある精神療法」はこの倫理則とどう関係しているのだろうか?「汎用性…」は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するものという特徴がある。それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「汎用性…」はその時々の患者の状況により適宜必要なものを提供するからである。結論としては、少なくとも精神分析的な「基本原則」に関しては、それを相対化したものを考え直す必要があるが、「汎用性…」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が考えられるということがいえよう。