3.セントラルストーリーとしての発達―愛着―右脳―解離路線
2.ではハードウェアとしての脳について、① それが脳は情報処理をするシステムである、② 脳の活動の実態部分は「無意識」である、③ 脳は快、不快を感じるシステムである
という三点について論じた。
もちろんそれが生まれた時から成立しているわけではない。更にそのような脳は幼少時より数多くの臨界期を重ね、そこで遺伝子の発動と環境との精妙なやり取りを通して形成され、成立していく。脳のそのような在り方が順調に成立するか、あるいは何らかの異常を伴った形で発達しているかは、そのやり取りの行われ方如何にかかっているのである。しかしこのように言うことは、人間の性格や精神病理が、母子関係に代表されるような養育環境により大きく左右されるということを必ずしも意味はしない。現在の発達論的な研究が繰り返し示すのは、フロイトが提唱したようなエディプス的な葛藤に代表される親子間の体験が子どもの人格形成に与える影響が最小限ですらあるという事実である。
マット・リドレーは「やわらかな遺伝子」という著書で、従来の「氏(うじ)か育ちかnature or nurture」という考え方を批判し、氏も育ちも、あるいは「育ちを通した氏(うじ) Nature via Nurture」(この本の原書の英語の題名でもある)という考えを提唱する。私たちはともすると、「人は生まれつきどのような存在になるかを遺伝子で規定されている」という考え方か、「いや、育ち、つまり養育環境ですべてが決まる」という主張のどちらかに偏りがちなのだが、まさに両方が人(の心、脳)の成立に関与しているということをわかりやすく説明している。彼はたとえばローレンツの刷り込みの例を挙げ、灰色ガンが生まれてすぐに目にしたものの後を追うという現象を説明した。しかしこれは特定の遺伝子がほんの一時期の臨界期にスイッチオンになった時の環境を取り込む、という現象で説明される。それを過ぎると灰色ガンは何を見てもそのあとを追うことがなくなるのだ。
マット・リドレーは「やわらかな遺伝子」という著書で、従来の「氏(うじ)か育ちかnature or nurture」という考え方を批判し、氏も育ちも、あるいは「育ちを通した氏(うじ) Nature via Nurture」(この本の原書の英語の題名でもある)という考えを提唱する。私たちはともすると、「人は生まれつきどのような存在になるかを遺伝子で規定されている」という考え方か、「いや、育ち、つまり養育環境ですべてが決まる」という主張のどちらかに偏りがちなのだが、まさに両方が人(の心、脳)の成立に関与しているということをわかりやすく説明している。彼はたとえばローレンツの刷り込みの例を挙げ、灰色ガンが生まれてすぐに目にしたものの後を追うという現象を説明した。しかしこれは特定の遺伝子がほんの一時期の臨界期にスイッチオンになった時の環境を取り込む、という現象で説明される。それを過ぎると灰色ガンは何を見てもそのあとを追うことがなくなるのだ。
これはどういうことかというと、遺伝子は単なる青写真ではなく、それがいつスイッチ・オンになるかまで極めて細かく決められていて、その間にどん欲に環境を取り込むということなのだ。そして人の脳にはこのような臨界期が幾重にもあり、その時々で「育ち」の影響を取り込んでいく。つまりその意味では人の脳は、育ちのコラージュと言ってもいいであろう。ただそのハードウェアの大枠は遺伝子で規定されている。脳のサイズも、どこの部分が本来大きくなるか、なども決められているところがある。IQも半分はその傾向があり、すなわち臨界期に育ちを取り入れる程度や質が、遺伝子により定まっているところもある。いわば遺伝子は育ちを取り入れる受け皿であり、そこにどのような育ちが入ってくるかに個人差があることになる。たとえば言語能力に優れた子供は大きめの受け皿を持っていても、そこにどのような言語の刺激が、どれだけはいるかにより言葉の能力が決まってくるように。
このように考えると、母子関係とは、育ちのコラージュとしての脳が形成されていく上で重要な役割を果たすものの、それがその養育態度により特異的な性格を形成する役割を果たすというわけではないということだ。安全な母子関係とはちょうど木が育つための土のようなものだ。それが程度の栄養を備えている限りは、苗は順調に、そして自分の思うままに枝を伸ばして言う。しかし問題はそれが外傷的であったり、必要な栄養を備えていない場合、すなわち虐待的であったりネグレクトフルな環境である場合である。
この比喩からお分かりの通り、一般的な意味での母子関係、親子関係の子供に対する影響を考える代わりに、愛着の重要性を考える傾向が、最近の精神分析には顕著であるといえよう。特に虐待的またはネグレクトフルな環境での愛着に付随するトラウマ、すなわち愛着トラウマについての研究が盛んである。
発達論的な立場から脳科学と精神分析をつなぐ大きな役割を果たしているのが、アメリカのボールビィとも言われているアラン・ショア先生である。彼の愛着理論は解離の概念と極めて深い関係がある。ショアによれば、、愛着の問題にまでさかのぼることで、解離という心の働きを理解することができるというのだ。
母親による情緒的な調節を行えないと交感神経が興奮した状態が引き押される。すると心臓の鼓動や血圧が更新し、発汗が起き、一種の興奮状態が訪れる。しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。するとむしろ鼓動は低下し、活動は低下し、ちょうど擬死のような状態になる。この時とくに興奮しているのが背側迷走神経のほうだ。(迷走神経を腹側、背側に分けて考えるのは最近の理論である。)解離は生理学的にはこのような状態として理解できるというのである。つまり解離は、愛着障害による二次的な反応と言えるのだ。
そしてショア先生は特に、いわゆるタイプDの愛着について詳しく論じる。タイプDの愛着とは、メアリー・エインスウォースの愛着の研究のあとを継いだメアリー・メインの提唱したものである。ここで若干ではあるが、この愛着理論の由来となった研究について一言解説しておく。この研究は、子供を実験室に招き入れ、親が出て行ったところで子供が残された部屋にいきなり他人が侵入するといういわゆるストレンジシチュエーションで、ストレスにさらされた子供が示す反応についての分類である。このうちA,B,Cという分類を行ったのがエインスウォースだが、メアリーメインという後継者が、ソロモンとともに新たに発見して提唱したのタイプDである。このタイプでは子供は親にしがみついたり、親に怒ったりというわかりやすいパターンを示さず、混乱してしまうのだ。ショアによれば、タイプDの特徴である混乱disorganization と失見当は、解離と同義だという。これは虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。
わかりやすく言えば、このパターンを示す子供の親は虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に素直によっていけない。だから親に向かって後ずさったり(親に向かっていくのではなく)、親とも他人とも距離を置いて壁に向かって行く、などのことが起きるという。
わかりやすく言えば、このパターンを示す子供の親は虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に素直によっていけない。だから親に向かって後ずさったり(親に向かっていくのではなく)、親とも他人とも距離を置いて壁に向かって行く、などのことが起きるという。
このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与える。
このタイプDについて付け加えるならば、これを示す赤ちゃんの行動は、活動と抑制の共存だとショアはいう。つまり他人の侵入という状況で、愛着対象であるはずの親に向かっていこうという傾向と、それを抑制するような傾向が同時に見られるのだ。そしてそれが、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。そしてそれがまさに解離状態であるというのだ。
これに関するもう一つの研究は、Tronick らによる、いわゆる「能面パラダイムstill-face procedure 」である。つまり子供に対面する親がいきなり表情を消して能面のようになると、こどもはそれに恐れをなし、急に体を支えられなくなったり、目をそらせたり、抑うつ的になったり、と言った解離のような反応を起こすというのだ。
このタイプDの愛着の概念が興味深いのは、そこで問題になっている解離様の反応は、実は母親の側にもみられるという点だ。母親は時には子供の前で恐怖の表情を示し、あたかも子供に対してそれを恐れ、解離してしまうような表情を見せることがあるという。そして母親に起きた解離は、子供に恐怖反応を起こさせるアラームとなるというのだ。(同論文114ページ、引用された文献はHesse, E., & Main, M. (2006). Frightened, threatening, and dissociative parental behavior in low-risk samples: Description, discussion, and i nterpretations. Development and Psychopathology, 1 8, 309-343. (つまりこれもメインの業績ということか。怪物だな。)
このことからショアが提唱していることは極めて重要だ。幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。それはより具体的に言うならば、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンfiring patterns of the stress-sensitive corticolimbic regions of the infant's brain, especially i n the right brainの取り入れ、ということである。ちょうど子供が母親の発する言葉やアクセントを自分の中に取り込むように、と言ったらもう少しわかりやすいかもしれない。そしてこれが、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。そしてそこに解離様反応の世代間伝達も含まれる、というわけである。
これを書いていてひとつ思い出したことがある。すでに紹介したマット・リドレーの「柔らかな遺伝子」には、子供に育てられたサルが蛇を怖がらないという話が出てくる。そこで蛇に野生のサルが反応するのを子ザルたちに見せると、いっぺんで怖がるようになるという。野生のサルが檻のてっぺんまで飛びのいて、驚愕に口をパクパクさせるのを見た後は、子ザルたちは模型の蛇でさえ怖がるようになる。これはどういうことか。ある見方からすれば、子ザルたちは母親の情緒反応パターンを取り込んだのだ。ショアの言うとおりに。ところが別の見方をすれば、一緒にトラウマを味わったことになる。子供が幼少時に受けるトラウマはこのように、刷り込みの意味を含むからこそ意味が深いことになる。おそらくトラウマを起こしてきた人の様子も含めて、右脳の皮質辺縁系の回路に刷り込まれるというわけだ。そしてそれが解離についてもいえるということになる。
解離と右脳
これまでの記述から、解離と愛着の問題の概要がご理解いただけたと思う。解離において生じていることは、愛着の障害の一環として理解できる。それは生理学的に言えば、交感神経の過活動の次に起きてくるフェーズである、副交感神経の過覚醒状態ということが出来る。
ところで愛着や解離の理論において、特にショアが強調するのが、右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の同調により深まっていく。親は視線を通して、その声のトーンを通して、そして体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は安定した母親のそれによって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かっていく。それらの成熟とともに、子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのだ。
ところで愛着や解離の理論において、特にショアが強調するのが、右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の同調により深まっていく。親は視線を通して、その声のトーンを通して、そして体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は安定した母親のそれによって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かっていく。それらの成熟とともに、子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのだ。
逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。ショアがこれを強調するのには、それなりの根拠がある。というのも人間の発達段階において、特に最初の一年でまず機能を発揮し始めるのは右脳だからだ。そのとき左脳はまだ成熟を始めていない。するとたとえば生後二か月になり、後頭葉の皮質のシナプス形成が始まると、その情報は主として右脳に流れ、右脳が興奮を示す。(Tzourio-Mazoyer, 2002) (Tzourio-Mazoyer,N.,DeSchonen,S.,Crivello,F.,Reutter,B.,Aujard,Y. & Mazoyer,B . (2002). Neural correlates of woman face processing by2-month-old infants.Neuroimage, 15,454-46l.)