2014年11月17日月曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(5)


③ 快、不快を感じるシステムである

これまで論じた①、②で論じた脳は情報処理だけでなく、情動を感じるシステムでもあった。ル・ドゥの「速い経路 low road」、「遅い経路 high road」はいずれも扁桃核に情報が至ることにより、戦うか逃避するかの選択を促す。しかし心は闘争/逃避反応を示すだけではない。快を体験し、未来の快を期待し願望するシステムでもあり、それが人間の営みである。
 フロイトはそのような心のあり方をいわゆる「快感原則」として説いたことで知られる。「精神現象の二原則に関する定式」(1911)において、フロイトは無意識においては願望が幻覚的に充足され、それが快感原則であるとした。そして現実にはその充足が即座には生じないため、それを長期的に成就しようとする原則を「現実原則」としたのである。
 この二つの原則がフロイトにとって重要な意味を持っていたのは、それが彼の心のモデルから必然的に導かれるものだったからである。フロイトはそのキャリアにわたって心の中に流れるエネルギー(リビドー)を想定していた。それが貯留、鬱滞するのが不快、発散するのが快であると考えた。そしてそれが夢や無意識的な活動でのみ発散されるため、人間はそれを現実の生活でも実現するために努力をする。
ただしこの快感原則に深刻な疑問を自ら投げかけたのが、1920年の「快感原則の彼岸」であった。彼はこれを書いた動機として、快楽原則に反するような行動、つまりそれ自体が不快で不安を呼び起こす事柄を人がどうして反復して想起するのか、という疑問を持ったのだ。フロイトが当初持っていた願望充足としての無意識的活動や夢、現実におけるその遅延された成就という考えについて深刻な再考を迫られていたことは確かであろう。
ちなみに私はフロイトの「夢は願望充足である」という説に最初に出会った時、その意味の一部はよくわかった気がした。私は幼いころ、「目を覚ますと欲しかったものが枕元にある」、という夢を何度も見た。さっそく夢から覚めて枕元に手を延ばすが、そこには何もない。その時の深刻な失望をはっきり覚えている。夢で得られた満足は覚醒した時の失望につながる。空想で何かいい出来事を考えても、そこから覚めると現実に引き戻される。このことを幼いころから何度も繰り返しながら私たちは成長していく。しかし夢には不快な夢もあるし悪夢もある。それらの夢を願望充足的だと理解するのには当然無理がある。だから「快感原則の彼岸」でフロイトが至った結論は、むしろ常識的と言えるだろう。
フロイトが「快楽原則の彼岸」で至った結論はおそらくとても常識的であり、妥当なものだった。確かに人間の行動や体験には、少しも快感の追及につながるようには思えないものも多い。かつて私はフロイトの「精神現象の二原則に関する定式」の現代的な意義について論じたことがある。現代フロイト読本1(みすず書房、2008)に収められた論文で、私はフロイトの快感原則を「心は真の願望を最終的に満足させるべく働く」と言い換えたうえで、それは現在の心の在り方についても妥当であろうこと、ただしその真偽を確かめる方法はない、ということを論じた。
 そのようなフロイトの考えのある部分を支持し、別の部分を変えたのが、1954年、オールズとミルナーによる快感中枢の発見であった。ネズミはそこに電気刺激を加えて興奮させるような装置を装着すると、それこそ寝食を忘れてレバーを押し続ける。おそらく動物は、そして人間もこの快感中枢が興奮するような思考、行動をするべく定められているという理解が得られた。それまでの心理学では、人はもっぱら不快の回避という動機づけを有していると信じられたが、そうではないこと、文字通り人間がフロイトの「快感原則」に従うような装置を持っていたことが彼らの発見で明らかになったのである。
ただしこの快感中枢の発見は、あるい意味ではフロイトの図式を否定することにもなった。人にとっての快楽は、リビドーの解放ではなく、A-10 のドーパミンニューロンの刺激というボタンを押すことに過ぎないということになった。これにより人間の動機づけ、動員に関する研究は、フロイトのリビドー論を離れて一気に広範囲にわたるものを考えることになる。分析家ジョーゼフ・ヒテンバーグの唱えた5つの動因論などはその成果と言える。
ちなみにオールズとミルナーにより見出された快感中枢は、実際には単に快感を味わうだけの装置ではなかったことが、最近の研究でわかっている。快感中枢に相当するのはVTA(中脳被蓋野)からNAcc(側坐核)に至るドーパミン経路(MFB)であるが、それがある種の夢が実現した時の快感を正確に査定するための装置としての役割を持つことがわかっている。この両者を結ぶ経路であるMFBは、実は快を味わう瞬間に興奮するのではない。未来にその快が約束された時に興奮するのである。(ビールを喉に流し込むときに、ではなく、目の前にビールの缶を差し出されたときに、興奮するのだ。)このことは私たちの脳が、快感原則に、より詳細にわたって計画的に従うための、いわば羅針盤ともいえる。
以上をまとめるならば、フロイトが考えたように、人間は快を求め、不快を回避する。将来体験されるべき快、不快はドーパミンシステムによりあらかじめ、検知され、その大きさに従って人は願望をし、将来に向かって行動する。これだけなら人の心は非常にシンプルな原則に従っていることになる。しかしここに大きな問題がある。それは何が快としてその人に体験されるかは、そこにとてつもない個人差があるという事実である。香水の香りをとっても、ワインの味をとっても、小説一つとっても、それをどのように体験し、それをさらに欲するか、それとも唾棄されるかは、個人の趣味、これまでの人生の経歴、過去の体験その他により大きく規定される。場合によっては生まれつき定まっているとしか思えないような好みや嗜好がある。その理由や根拠を分析し解明し、またその快感中枢の興奮のパターンそのものを変えることは時には非常に困難となる。そしてそれが時には精神分析的な治療にとっての大きな課題となる可能性があるのだ。