2014年11月16日日曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(4)

ネット情報によると、中国のスマートフォン向け通話アプリ利用者を対象に実施した対日意識調査で、83%が日本に「反感」を示し、「好感」の回答は3%に満たなかったという。でも他方では小笠原近海に大挙して中国漁船が珊瑚を漁りに来る。日本に反感を持つからそうする、ということだろうか?そうではないだろう。
一握りの人間たちにより情報操作される隣国。一方的に身勝手な嫌悪感を持たれるのはつらいことだが、一億二千万の国民が一緒に同様の体験をしているということは心強い。隣国でも国民はむしろ犠牲者、そういうことだろうか?



②  脳の活動の実態部分は「無意識」である
― 予想するシステムとしての脳、記憶する脳
 フロイトが提言した、一番本質的な心の働きは無意識である、という考え方は、重要な発見、というよりは予見であったといえるだろう。というのも心のあり方はやはりどう考えても無意識がその大部分を占めているからである。
最近の大脳皮質の研究については、ジェフ・ホーキンスの「考える脳、考えるコンピューター」が大きな示唆を与えてくれる。彼の考えはこうだ。大脳皮質を観察すると、そこには多くのインプットと、そこからのアウトプットの経路が見られる。それは第4層から入り、第5層から出る、という形をとり、それにより成立する近接、および遠隔地の大脳皮質との情報の行き来は原則的に双方向性である。そこで行われるのは、いわばバックグラウンドでの情報処理であり、いわばジクソーパズルの個別部分の組み合わせである。パズルの縁の部分の構築、と考えればいいだろう。いまだ本質的な画像は浮かんでこない。そこで統合された情報が徐々に上位レベルの皮質に移行していくのであるが、そこで重要なのは、その情報処理が常に予想を行っているのであり、それと大きく異なる現実に直面しない限りは、上位に特別な信号を送ることはないのだ。
たとえば自宅に戻り、いつもと部屋の様子が同じならば、その視覚刺激は上位には伝わらない。いや、伝わるとしても「いつもの部屋。以上、おしまい。」程度なのである。それは弱い情報伝達であり、意識に留まることもないだろう。ところが机に見慣れない封筒が置かれていると、それは予想と異なった部分であり、直ちに上位に送られる。「デスクの上に封筒発見!」しかし注意してみると、時々来る水道の請求書であることがわかり、「訂正、ただの請求書だった。以上。」で終わる。これもこのままでは忘れ去られる運命にある。ところがその封筒が見たことのないものであり、中に妻からの絶縁状が入っていたりすると、それこそそれは一生忘れられない記憶として記銘される。
 ここで意識と無意識の働きという文脈で考えるならば、このように心の働きの大部分は無意識で行われ、しかしそれは常なる予想と現実との差異を査定するという作業であることがわかる。そしてそこで異常発見となると意識の登場になる。その意味でやはり心の働きには無意識への比重が圧倒的に大きい。ただしフロイト的な意味とはかなり異なる。フロイトの場合は「無意識に欲動が詰まっていて、それが人を突き動かす。意識はその言い訳をする。」であった。脳科学的には、「情報処理は大部分が無意識的で、統合の際、あるいは予測不可能な事態が生じたときが、意識の出番である。」大きな違いなのだ。
 実は意識的な心の持つ自発性というものが幻であり、人の行動については「無意識がサイコロを振っている」という考え方は、たとえば「マインド・タイム」の著者ベンジャミン・リベットの実験などにより示唆されている。拙書「脳から見える心」にも書いたことだが、彼の実験は人が指を動かそうと思った瞬間の0.5秒前に、脳波の動きが見られることを発見したのだ。つまりどの瞬間に指を動かすかは、無意識がサイコロを振り、「動かせ」の目が出たときに指が動き始め、意識はそれを後追いして、自分が自発的に動かしたと勘違いしたのである。
私はこのリベットの実験から、人間が実はロボットのような存在で、たまたま自分は意識や自立性を有していると勘違いしている、と主張するつもりはない。ただ私たちが意図的、自律的に行動していると持っている部分の非常に多くの部分が、無意識のサイコロ振りにゆだねられていることも確かであろうと思う。たとえば昼食をカレーにしようか、ハヤシにしようかと迷っているとき、私たちはたいてい無意識にサイコロを振らせているのではないか?あるいは「絶対ハヤシ!」と思う人でも、むしろそれは頭が最初から命じているのではないか?こんなショーもない例で申し訳ないが、私たちが本当に意図的に決めていることは少なく、また意図的に決めていることも、生理的にすでに判断が下されているということはないだろうか。

ここで私はこれ以上、意識が決めているのか、無意識が決めているのかについての議論を展開するつもりはない。(というより私の中では答えはすでに出ているのだが。)そうではなくて、私たちが自分たちの発言や行動の根拠を探り、理由づけをすることの意味が、フロイトの時代に比べてはるかに少なくなっているということを言いたいのだ。私たちの発想、決断、行動のかなりの部分が無意識から降ってくる以上、それを理性的に分析することには実は大きな無理が伴う。脳科学的に言えば、それは右脳の行動に左脳が理由づけをするという行為となる。