2014年11月15日土曜日

脳科学と精神分析 推敲の推敲(3)


   ① 脳は情報処理をするシステムである

動物のレベルの脳の延長として人間の脳を考えた場合、脳は確かに情報を統合するシステムと見なすことができる。脳は、ある情報を与えられて、それを全体として判断し、「イエスか、ノーか」を出力するシステムといえる。なぜこう言い切れるかといえば、私たちが通常心を持っていると想定するもの、すなわち動物は突き詰めればこの「イエスかノーか」の判断を常に行っているからであり、それが彼がにとって生死を決するほどに重要な判断だからだ。
 彼らはまずある種の知覚情報を、感覚器官を通して入力する。そしてそれを受け入れる(取り込む)か、拒絶する(回避する、逃避する)かという判断を下す。受け入れるとは、それに接近し、捕食し、あるいはそれにより庇護されることである。拒絶するとは、逆にそれにより攻撃されたり捕食されたりするのを回避することだ。
さて人間を考えれば、この第一段階の情報処理については、目や耳などの感覚器官がそれを行っているのは明らかである。その情報は大脳皮質に伝えられ、まず第一次感覚野という部分で処理され、それが視床に集められたのちに高次の皮質のレベルに上がっていき、それが「何か?」が判断される。そして「何か?」の次に生じるのは、それがイエスかノーか、つまりそれが快か不快か、という判断がなされる。それにより、具体的な行動、すなわち捕食したり、愛着対象として認知したり、「闘争、逃避」反応が起きたりする。
 ただし視床からの経路が二つあることが知られている。一つは「速い経路」で、扁桃核に直接つながり、「遅い経路」は前頭葉を遠回りした後に扁桃核に行きつく。その結果として「黒く何本かの足のある物体」は、まず視床で「クモだ!」と認定され、そこからの逃避が始まり、一瞬のちに前頭葉で「本物そっくりのゴムのおもちゃのクモだ」と認定し直されて扁桃核にインプットされ、逃げようとする体にストップをかけるというわけだ。
さて以上のことを私は精神科医としての常識の範囲から知っている。ちょっと図に描くと以下のようになるが、この仕組みの発見に貢献したのが神経学者ジョゼフ・ルドゥである。

知覚野 → 視床 ⇆ 連合野
           ↓     ⇅
         扁桃核 → 行動

ここで起きていることをまとめると、心とは情報を統合して全体的に判断して、イエス、ノーを決めるシステムということになり、それは具体的には視床、知覚野、連合野、扁桃核などが司っていることになる。
この図式からわかるとおり、脳における情報処理はもっぱら外界とのつながりに最大の重きを置いていることがわかる。人の心は常に外界からの悪影響を取り除き、危険なものからはまず逃避し、その後に状況を意識的に吟味する。このうち逃避するという行動は無意識的になされる。ジョゼフ・ルドゥの図式が教えてくれるのは、脳の情報処理において、無意識部分はいわば下働き、バックグラウンドでの働きをし、人間を危機から救ってくれるということだ(視床から扁桃核に行く、「速い経路」)。これは飛行機の自動制御にたとえることが出来るだろうか。飛行機の高度が低すぎたり、決められた航路からそれすぎていたらアラームを鳴らしてくれる。操縦士は手動に切り替えて飛行機の速度や位置を建て直すが、それが意識的な活動ということになる。フロイトは無意識を様々な欲動のうごめく所と理解したが、情報処理のシステムとしてみた心にとっての無意識は、バックグラウンド処理、自動制御の役目を果たすのだ。ちょうど最近の車のように、それは急に飛び出した人を感知して、自動的にブレーキを踏む。ところがそれは上空を飛ぶ飛行機が道路上に落とした影かもしれない。つまりフォールスアラームなのだ。それを最終的にどう扱うかという判断を下すのは意識、つまり人の心だ。
 さて情報処理をするシステムが意識を持つということについてであるが、その線を追求したのがジュリオ・トノーニの情報統合理論であると理解できる。なぜ情報処理が心であり、意識なのだろうか。それはこの自動制御と手動による操作という比喩から理解できるであろう。自動制御の誤りや行き過ぎを正し、それをより状況に合った働きに訂正するのは自動的な働きを超えた、そして全体的な判断をする働きである。しかしそれはほとんど意識を持った存在と言いなおしてもいいであろう。
これについては以下のように考えてもいい。もし飛行機に、自動制御による情報を受け取り、それに対してあらゆる状況を総合的に判断する力(天候の影響、パイロットの体調の急変、客室で起きた異常事態、テロリストによる脅迫、などにどのように対処するか、など)を持った上位のコンピューターシステムが存在するとする。それはほとんど意識を持ち、覚醒している存在と考えることが出来ないだろうか?
ここで重要なポイントは、全体的な判断ということである。そのためには情報の統合が必要である。すべての情報を総合した上でどのような対処行動を行うかを決定できるかが、意識の存在に決定的なのだ。
ここで自動制御の代わりに、副操縦士が操縦室に乗り込んでいることを考える。その副操縦士は有能だがあまり頼りにならないのは、寝不足で、時々居眠りをしたり、白日夢に浸ったりする。つまりその時々で「意識レベル」が異なるのだ。その時その副操縦士がどの程度覚醒し、意識を保っているかをどのように判断するだろうか?操縦士であるあなたの問いかけに、「フン、フン」とうなずくだけなら、話を聞いていずに適当に返事をしているだけである可能性がある。居眠りしていても、カミさんの問いかけにハイハイという返事をするようにしつけられた夫のように。つまりその副操縦士の「自動制御」の部分だ。ところが緊急事態にどのような総合的な判断を下せるか、操縦士であるあなたの身にもしものことがあったらそれに代わることができるか、ということなのだ。情報を統合し、全体的な判断を下すシステムとして意識を既定したトノーニの理論の優れた点はそこにある。
 ところで脳でこの統合を行っている部位といえば、もう明らかであろう。前頭葉、特に前頭前野である。脳には連合野という部位があり、それぞれの大脳皮質の領域を統合している。その連合野の連合野とも言うべき部位が、前頭葉なのである。脳を本にたとえるならば、各章がそれぞれの感覚野である。それぞれの章はまとめが書いてあり、かつほかの章との関連も書かれている。ここが連合野だ。そして巻末に、まとめのまとめ、結論のような部分がある。これが前頭前野の役割と見ていい。個々を読めば、全体を読まなくても一種の結論のようなものを把握することが出来るだろう。
このような意識の捕らえ方をフロイトと比較してみよう。フロイトは意識化できるものはその人が耐えられるもの、無意識に押しとどめておく必要がなかったり、押しとどめられなくなったもの、というニュアンスがある。きわめて力動的な発想だ。もちろんこれはいわゆるトポロジカルモデルに従ったものであり、フロイトはその後構造論(自我、超自我、エス、など)に移っていく。そこでの自我の働きは、その一部が意識の部分と重なり、様々な適応的な機能を担ったものという理解が行われることになる。そこでの意識の活動は、生命の維持や社会適応の為に必要な様々な機能を担うものという理解を与えられるのだ。