2014年11月11日火曜日

汎用性のある精神療法の方法論の構築 (2)


私はこの原則を条件付きで認めていおり、それは30年前に精神科の臨床をはじめたときからあまり変わらない。私は精神分析のトレーニングを受けたが、患者と話す時、どう考えても自分がテクニックらしきものを多用しているとは思えないのだ。それは認知療法の系統講義を受けた後も同じだったし、EMDRのトレーニングの後もそうだった。
 条件付き、とはどういうことか。これらの特殊な技法の効果を認めないわけではない。しかしそこに行き着くまでに、かならず患者との何らかの言葉の交わし合いがある。そのプロセスをとりあえず「面談」の部分としよう。ここが実は大きな意味を持つ場合が少なくない。それは数週間ぶり、ないしは一週間ぶりに患者と出会った際には自然発生的に起きてくるのである。精神分析にしても認知療法にしても、まずは最初に「ここ数日(数週間)はいかがでしたか?」というところから始めるのであるが、それに昨日あった比較的大きな出来事の詳しいいきさつが語られたり、それについてのアドバイスなどを求められたりする。すると「いや、もう分析(認知療法)」をはじめなくてはならないので、その話はまた後で」とも言えない。それが分析(認知療法)よりも、現在の患者の生活の中で最も切羽詰った出来事であったりするからだ。この時間はとても大事なのだが、いったい何が起きているのかが不明なのだ。この「面談」部分は無駄なのか? 例えば認知療法のプロセスを邪魔しているのか? 難しい問題だ。 
「面談」はすべてを含みこんでいる

実はこの不思議な「面談」の性質について、かつてある論文で論じたことがある。(「面談」はすべてを含みこんでいる: 精神療法394号特集 575577, 2013年)そこでの要旨に沿ってしばらく論じてみよう。
改めて、精神科医が行う「面談」とはいったいなんだろうか?  「面談」の特徴は、基本的には無構造なことだろう。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談として扱われるかもしれない。しかし二人の人間が再会する最初のプロセスは非常に重要である。相手の表情を見、感情を読みあう。そして精神的、身体的な状況を言葉で表現ないし把握しようと試みる・・・。ここには特殊な技法を超えた様々な交流も生じている可能性がある。「面談」を教科書に著せないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。私は数多くの「~療法」の素地は、基本的には「面談」の中に見つけられるものと考える。人間はそんな特別な療法などいくつも発見できないものだ。