2014年10月6日月曜日

脳と心(6)

超自我は?
これもちょっとした難問だ。私たちは超自我を心の機能のかなり高次の部分と考えるだろう。子供には十分に備わっていない機能。大人になるにしたがって成熟する部分。一種の道徳心。こう考えると前頭前野の機能にかなり重なるところがある。しかし昨日論じたクリューバービュッシー症候群を思い出そう。扁桃核が亡くなった人間は攻撃性や恐怖心が失われ、かなり抑制のとれた行動を見せる。ということは不安や怖れを生む扁桃核が実は超自我的な機能の少なくとも一端を握っているということになる。ただしもちろんそれだけではない。
 超自我と脳の関係を知るうえで参考になるのが、例のフィネアス・ゲージの症例だ。1848年にある自己により左前頭葉の大部分を消失したにもかかわらず仕事に復帰した、例の症例である。以下は彼を観察した医師ハーロウの記述。
「彼の知的才覚と獣のような性癖との均衡というかバランスのようなものが、破壊されてしまったようだ。彼は気まぐれで、礼儀知らずで、ときにはきわめて冒涜的な言葉を口にして喜んだり(こんなことは以前の彼には無かった)、同僚にもほとんど敬意を示さず、彼の欲望に拮抗するような制御や忠告には我慢ができず、ときにはしつこいほどに頑固で、しかし気まぐれで移り気で、将来の操業についてたくさんの計画を発案するものの、準備すらしないうちに捨てられてほかのもっと実行できそうなものにとって代わられるのだった。知性と発言には子供っぽさが見られ、強い男の獣のような情熱を備えていた。事故以前は、学校で訓練を積んでいなかったものの、彼はよく釣合の採れた精神をもち、彼を知る者からは抜け目がなく賢い仕事人で、エネルギッシュで仕事をたゆみなく実行する人物として敬意を集めていた。この視点で見ると彼の精神はあまりにはっきりと根本から変化したため、彼の友人や知人からは「もはやゲージではない」と言ったほどであった。」(ウィキペディアよりコピペ)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%8D%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%B8

おそらくこれを読むと、ゲージが失った左前頭葉こそが超自我の存在する脳の部位、ということを考えないだろうか? 
ただしこのように考えると、心の機能を、エス、自我、超自我と考えることがどの程度リーズナブル化についても一つの疑問が生じておかしくない。これらのそれぞれが脳のいくつかの部分にまたがっている。ということは心を構造論的に考えること自体にこの3つに分類する必要性はおそらくあまりないということだ。
そもそもフロイトはエス、自我、超自我という心の構造にどうしてこだわったのか? それは無意識の発見という彼の業績に関係している。人間はプリミティブな願望を抑えていることにより心の病が生じるという信念。そのためにはエスを措定する必要があった。しかしそれ以外の部分を無視できなくなり、自我 Ich の概念が生まれた。
今の私たちが必要としている心の図式は、私はそれとは異なっていると思う。それは「愛着」を基盤としたものだ。人はもちろん性的な本能や攻撃性を持つ。しかしそれらを心の病理の本質としてとらえるべきかどうかは疑問だ。むしろ私たちが注目するのは、早期の母子関係が形成する愛着、ないしはトラウマなどによるその障害であり、それが将来的に生む様々な問題である。

この愛着及びその障害とトラウマの問題は脳科学的にも徐々に解明されつつある。いつかこのブログでCANという概念を紹介した。これはCNS-ANS limbic circuits の省略形である。つまり CANとは「中枢神経-自律神経-辺縁系」を結ぶサーキットのことだ。上に述べた皮質と皮質下の連携のことである。これには先ほど登場した大脳皮質や、扁桃核(辺縁系の一部)などが組み込まれることになる。愛着を主軸とした脳の理解が心の理解ともうまく合体するというのが、私の結論なのだ。