2014年10月5日日曜日

脳と心(5)

 きのう書いたことは、最近の脳についての理解だったが、あれほどあいまいで大雑把な書き方をしても許されるとすれば、そもそも脳のことがよくわかっていないからである。大胆な仮説が許されてしまうほどに心の問題は混とんとしていて、まさに未開の地と言える。しかしそれでもフロイトの時代よりははるかに進歩しているのは確かである。フロイトの時代、すなわち19世紀の終わりは、彼自身もその発見者の一人として数えられる神経細胞と神経線維が脳を構成しているらしい、ということがようやく分かったという段階だった。その段階でフロイトは脳の在り方を大胆に予測し、心の在り方をそこから描いたわけだ。フロイト理論がそのプリミティブな脳に関する知識をもとに作られている以上、精神分析理論が現代に合わないのはむしろ当然と言わなければならない。

  ここに掲載したのは、Lewis Tardy “Introspection” (2001) という人の作品だが、フロイトの頭にあったのはこのレベルの脳の理解だったといえば、フロイトは怒るかもしれない。しかしフロイトのすごいところは、神経細胞をすでに仮説的に二つに分け、それらからなるニューロンのネットワークを考えていたところだ。そして行き当ったのは、脳は一定の情報を留め、意識活動に侵入しないようにするメカニズムを持っているという発想であり、それが抑圧だった。そしてそれが精神の病理の基本にあると考えたわけである。フロイトがその業績の後期になり、構造論モデル、すなわちエス、自我、超自我からなる心の図式を描いた時、もはや神経細胞についての言及はなくなっていたわけであるが、もちろんフロイトはその後延々と生じる脳科学の発見を持つ余裕もなかった。彼は脳科学的な基礎を踏まえた理論ではなく、あくまでも仮想的な心のモデルを考えたわけである。 私たちは少なくとも上の図に見られるような心の基本構造としての皮質、視床、扁桃核、海馬などの存在を知っているのであるから、フロイトの構造論の図式にとどまるわけにはいかない。彼が考えたエス、自我、超自我は現在の脳科学の見地からも意味を持つのであろうか?あるいは新たに私たちが知ることになった脳の各部位とどのように対応するのだろうか?こんなことって誰かが書いているだろうが、あいにく思い当たらないから、自分で書いてみよう。 エスは性本能、攻撃本能等の座ということであるが、これらの本能が人の心にも動物の心にも眠っていることは確かであろう。ただそれらを抑圧することが心の成立に決定的かどうかは不明である。フロイトが考えていたのとは異なり、幼児性欲について同様に重視している脳科学者はおそらく非常に限られているであろう。エディプス的な願望についても大いに疑問。攻撃性については個人差が非常に大きいといえる。  脳の中でこれらの感情や本能をつかさどる部位としては、おそらく扁桃核であろうか?扁桃核が侵された状態として知られるクリューバービュッシー症候群ではかなりそれらの本能のコントロールが失われる。一方では性欲が過多になるが他方では、攻撃性や恐怖心が失われる。とすればエスの活動と扁桃核を同一視するわけにはいかなくなる。ともかくも人間の心にエスという座を設けるにしては、あまりに様々な部位がその機能に関与しているという印象がある。  自我、はどうだろうか?これについてはおそらく多くの脳科学者が大脳皮質の働きを対応させるのではないだろうか。五感の機能をつかさどり、概念化や抽象化を行う部位としては大脳皮質、さらには前頭葉機能が相当する。これも一つの座に収まるものではない。