2014年10月13日月曜日

脳科学と精神分析 (推敲) (2) 


私が主張したいのは3つのテーマである。
1.脳の活動の可視化と心の理解の深まり
2.ハードウェアとしての脳の理解と心の理解。フロイト説からトノー二説まで。そこで、ハードウェアに
3.セントラルストーリーとしての発達―愛着―右脳―解離路線。

1.  脳の活動の可視化と心の理解の深まり

フロイトの時代には、心を可視化するという試みはほとんど不可能であったといえる。すでに脳にある種の局在があるであろうことは、すでにフロイトの時代にはわかっていた。頭部外傷で言葉がしゃべれないようになった人の脳を死後に解剖すると、みな左前頭葉の一部に損傷があるということを発見したのが、フランスのポール・ブローカであるが、彼の発見は1860年代のことであった。1856年生まれのフロイトの活躍はそれ以降ということになる。フロイトはそのブローカの業績に懐疑的であったとされるが、そのフロイト自身は、脳や中枢神経が、神経細胞と神経線維により構成されていることを発見した。(若きフロイトは1878年にはヤツメウナギの脊髄神経細胞の研究を行い、18791881年にはザリガニの神経細胞を研究して、ニューロンの発見者の一人として貢献しているのである。)しかしそれらを構成要素の一部として成立している。
フロイト以降の脳科学の発展として特に注目されるのは、脳波の発見であろう。1929 ドイツの精神科医ハンス・ベルガーによるヒトでの脳波の存在が報告された。これにより脳の活動は非常に微弱な電気の活動として計測できることがわかった。程なくしててんかんはその電気的な嵐が起きていることがわかった。てんかん発作が、脳で起きている高電圧の同期化した電気的な活動であることがわかってからは、それが「病気」であり、治療の対象であり、患者はむしろその犠牲者であるという見方に貢献するようになった。症状はそれまでの意図的で周囲の気を惹くようなものから、患者自身には意図的にコントロールしがたいものと理解されるようになった。
 もしフロイトが生きているうちにこの脳波の発見が起きたらどのような反応をしていたであろう。おそらく彼が抱いていたリビドー論の一つの傍証と考えたのではなかっただろうか?フロイトは神経を二種類に分け、それらの間をある種の「量」が行き来する様子を描いている。それは備給、充満、疎通などの表現を用いられていたが、それがある種の電気的な信号の伝達であるということを知らされても、全く異存はなかったであろう。
私は脳の活動が可視化されるということでひとつの最大のメリットは,それにより真正てんかんと解離性の転換症状の区分が明確になったことであろうと思う。それ以前はてんかんもヒステリーも一緒に分類されていた。19世紀の末に、シャルコーがサルペトリエール病院の「女性痙攣病棟」を担当したが、そこではてんかんもヒステリーも同類に扱われていたのである。
ただし脳波の発見が救ったのは、女性痙攣病棟に入院していた患者のおそらく一部だったに違いない。すなわち脳波異常を伴ったてんかんを有する患者たちである。それ以外のいわゆるヒステリー性の痙攣発作は、依然として懐疑的な見方を受けつつ今日に至っているといっていい。まあ、その話は別にして・・・・・。
フロイトの時代には考えられなかった脳科学の知識は、神経細胞を流れるエネルギーにはいくつかの種類があり、それが脳でさまざまな働きをしているということである。脳内を流れる神経回路には、その伝染にいくつかの種類があるといってもいい。いわば脳の回路は赤や青に色づけされているというイメージでもいいだろう。その中で最近よく効かれる、欝に関連したセロトニン以外にもドーパミンがある。最近の脳イメージングの研究では、いわゆるプラセボ効果の際に、活発にドーパミンやエンドルフィンが分泌されていることがわかっている。