2014年9月10日水曜日

自由な議論の場を求めて(1)

何かよくわからないものを3回にわたって連載。これもオトナの事情だ。


「逆風」の中で

私にとっては精神分析の会合が安心して自由な考えを述べる事が出来るような場であることはあまりない。本当の考えを述べると「逆風」の中に身を置いていることを感じ始める。だからそのような会合に出る前には不思議な緊張感を体験する。精神分析関係の学術集会には大抵、ある侵さざるべき原則があり、それにあえてチャレンジするような発言は決して歓迎されない。ところが私は天邪鬼だから、ついそのような発言をしてしまいたくなる。(実はこの言い方には実は嘘があった。実は私は自分が天邪鬼だとはあまり思っていない。むしろ素直な部類だ。ただ思ったことを言いたくなるだけである。)
ではその侵さざるべき原則とは何か。それは「分析的」であれ、という原則である。あたり前のことなのかもしれないが、これは精神分析的な議論の際の大前提であり、これが大きな超自我となってのしかかってくる。
ところでここでいう「分析的」であるとはどういう意味だろうか? 実は何が「分析的か」は所属集団により大きく変わってくる。クライン派の集団にとっての「分析的」とコフート派にとってのそれはずいぶん違うであろう。ただそのもっとも根底にあるのは、無意識内容の追及であり、治療者からの解釈という手段を通してそれを行うという点であろう。要するにフロイトが100年前に提唱したことだ。そこに転移解釈の優先、という条件が加わると一層「分析的」な風味が増すだろう。
精神分析の学術的な会合でこの意味で「分析的」でない意見を述べたりした場合には、もうその時点で負けであり、その会合にいる意味を失ってしまう。そして私がこれまで述べてきた考えの中には、「それは分析的ではない」と一蹴されるとそれに反論できないものが時々ある。例えば今書いているこの文章だって、「分析的」でない者の典型かもしれない。
 すこし具体的な話をした方がいいだろうか。たとえば私がある治療方針について提案する。「ここでは認知療法的なアプローチの方が効果があるかもしれません。」と言ったとしよう。これでは説得力はほとんどない。「でもここは精神分析の会合です。その話はよそですればいいでしょう」と言われれば、全くその通りだと引き下がるしかない。(ちなみに私はこの種の発言をしたことはない。あくまでも一例である。)
「分析的」であれ、という命題は、精神分析が一種の学問とか古典芸能であれば、至極もっともなことと思う。「分析的」ではない議論を排除することで、基本的な構造が守られ、ある種の伝統やお作法が引き継がれるのを助けることになる。それはその古典芸能のファンが皆望むことであり、そうでなければファンは去っていくだろう。ところが精神分析には学問や芸能とは決定的に異なる事情がある。それは実際の患者が関わっている点である。
私たちが日常的に会っている患者の多くは、社会生活や日常生活において何かしらの不都合や生きにくさを抱えて、その苦痛から解放されることを望んでいる。(ここで分析家になるためのトレーニングの一環として教育分析を受ける場合や、よりよく治療者として機能するために個人分析を受ける場合は除外して考えよう。) そして患者の側の「苦痛から解放される」という希望と、治療者の側の「分析的」な治療を行う、という意図が、必ずしも一致しない、微妙にずれる可能性があるというのが一番の問題なのだ。分かりやすく言えば、患者は苦痛から解放されるのであれば、どのような方法でもいいのである。しかし治療者のほうが[分析的]に治療を行うことにこだわるのである。
もちろん治療者が「分析的」であることが苦痛からの解放にとっての最善で最短の道であることが明らかなら、この矛盾は生じない。しかし精神分析以外の数多くの (一説では数百とも言われる)治療法が提唱され、そのどれもが効果をうたっている以上、話は決して簡単ではない。そしてこの問題が決して無視できないのは、患者の側はこの矛盾の存在を大抵は知らない、という事実のためである。患者は自分の問題にベストの治療を施してもらっていると信じている。他方治療者は「分析的」な治療を行うわけだが、たいていの場合、患者は自分がどのような治療方針に基づいた治療を受けているかを知らないし、治療者の側もそれを説明しないのだ。 もちろんこの部分の説明が念入りに行われたうえで、患者との合意がなされた治療であれば、話は別である。しかし精神分析には、その説明そのものがタブー扱いされかねない(少なくとも「分析的」ではない)という大きな問題があるのである。
 これって問題ではないだろうか?