2014年9月9日火曜日

ブロンバークの解離理論(8)

錦織君には感謝だね。ここ数日間ずいぶん勇気をもらった。不特定多数の人が喜びを分かち合える経験はあまりないものだ。
ところでデング熱、案外これまでも普通の風邪として見過ごされてきた可能性はないのだろうか?

さてこの本の最終章「あなたの近しさ」では、彼の個人的な思い入れや彼の書き手としてのスタイルが吐露されている。彼の文章は理論的というよりはエッセイ風で、随所で巧みに文学作品からの引用が行われているが、そんな彼のスタイルの由来が書かれている。彼にとっては自分の自己状態と他者の自己状態を行き来することへの関心は常にあったという。つまり作者の自己状態から、読み手としての自分の自己状態との間の意向である。そしてそれを脳のレベルで説くアランショア(特に彼のいう「右脳同士の情動コミュニケーション」)の研究への関心もひときわ高かったのだ。
彼はこの章で「なんとなくsort of 知っているという状態」について論じ、それが自分の解離された部分から感じ取れるものであるという。解離された部分はこうして自己へ「何となく」語りかけてくるのである。いわゆる関係性をめぐる暗黙の知implicit relational knowing にもつながるその体験をどのように持つのか、それをどのように治療の中で生かしていくかについて、最後までブロンバークは明言を避けているようである。

さて全体を読み通して感じるのは、ブロンバーグはすでに新しい精神分析の行先を見越し、そこには解離と心の理論、愛着、脳科学などがキー概念となることを提唱しているのがわかる。私はこれについては常日頃考えていたことであり、全く異論がないどころか、むしろ非常に頼もしく、勇気を得た気がする。
ただ一言解離との関連で言うならば、やはり精神分析で扱う解離は「解離性障害」の解離とは若干異なるということだろうか。ここで広義の解離と狭義の解離を区別すること、ないしは「精神分析的な解離」というタームを導入する必要が生じるかもしれないであろう。これらの「解離」はどこが違うのだろうか?
解離性障害を扱う場合は、やはり解離され側がの人格部分を「個別に」、もう少し言えば「別人として」扱うという必要はどうしても出てくる。解離された側は、主観にとっては「なんとなく」「繭に包まれた」感じ取られるだけかもしれない。でも何となく「感じさせて」いる側はある明確な体験を持っている。精神分析ではあくまでも「こちら側」のみからそれについて扱うのだ。しかし解離性障害においては、向こう側まで歩み寄る必要がある。何となく姿を見せている解離された部分の側に行き、その声を明確に聞く手続きもどうしても出てくるのである。
この違いは不明確だろうか?精神分析では、解離している部分からの囁きを問題にする。ところが解離性障害では、囁き手と直接かかわる必要が生じるのである。
また本書で当然のごとく論じられているエナクトメントと解離との関係性についてはどうか。これはエナクトメントの斬新な理解の仕方である一方では、それ以外のエナクトメント、解離以外の由来を持ったエナクトメントの可能性も否定できないであろう。エナクトメントと従来論じられることの多かったアクティングアウトとは必ずしも明確に区別できないであろうが、アクティングアウトが無意識内容の表現という意味を持つ以上、エナクトメントと抑圧との関係も考えなくてはならない。その意味では従来の抑圧や葛藤を中心概念として据えた精神分析理論との関係については今後様々な観点から再検討されなくてはならないであろう。
しかしそれでも私はブロンバークにより開かれた精神分析の新しい地平に多くの可能性を感じ、今後の精神分析のさらなる発展の方向性を示された思いがするのである。(おしまい)