2014年9月11日木曜日

自由な議論の場を求めて(2)

治療者自身も自分が「分析的」であることを知らないこともある

この問題がさらに大きくなるとすれば、それは非常にしばしば、治療者の側も精神分析的なオリエンテーションを持っていることへの自覚が十分ではないことがある。彼らはそれまでの教育を受ける段階で、その多くが「分析的」な考え方を持つに至っているものの、それがある特殊な手法であるという自覚がない。むしろ精神療法の本来的な在り方がそうである、という感覚がある。このような無自覚な分析的療法家の多くは、当然ながら精神分析がどのような原則に従っているのか、どのような形で治療が行われていくのかについての説明を患者さんにしないことになる。
どうして無自覚な分析的療法家が増えるのか。それはおそらく精神分析における様々な禁止事項が頭に入りやすく、アピールしやすいからかもしれない。匿名性、受け身性、禁欲原則などの基本的な原則は、それを聞く限りは何となくもっともらしいし、それを守ることが精神療法の専門性を与えてくれるという実感を持ちやすい。「患者さんに質問をされてもすぐに答えてはいけません。」「なるべく自分のことは患者さんには話してはいけません。」これらの禁止事項が持つ様々な意味を知るには時間がかかるし、トレーニングが必要であろう。しかしこれらはまた駆け出しのセラピストにとってもいかにも正しく、もっともらしく響く。そこでまずそれらの原則について、それが精神分析的な理論の歴史の流れの中で持つ意味などについても知ることなく、取り込むのである。私は時々思うのだが、無自覚な分析的療法家程「分析的」な治療を行う傾向にあるのではないかと思うこともある。

私の方針


さて私は先ほど天邪鬼ではないと言い直したが、そうではなくてある原則や方針に従った考えをもっているつもりである。それは二つある。一つは精神分析を本来患者にとって利益となるべきものと言う前提である。簡単に言えば患者を苦痛から解放するための最大の努力を払うべきものとすべきだということであり、「分析的」であることを優先しないということだ。もっといえば、苦痛の解放、自己の理解という目標に向けられたものとして「分析的」であることの定義を新しく作り上げること、更新していくことを常に目指すべきであろうと思う。そうしてもう一つは、その理論が現代の脳科学、遺伝学、生物学的な知見と大きく矛盾しないということである。どちらも当たり前のことと言える。これを医学とたとえると分かりやすい。内科学 (別に外科でも同じだが) は患者の苦痛の軽減のためにあり、最新の科学の知見に沿っていなくてはならない。
このような私の立場であるが、一つだけ幸運なことがある。(これを言っても「逆風」は吹いてこないだろう。)それは私は結局精神分析が好きなのである。これほど優秀な、日本の頭脳とも呼ぶべき人々が集まっている集団はあるだろうか?そこでは非常に知的な興奮が楽しめる。そして現在精神分析の広い世界で起きていることもとても面白い。我田引水のようであるが、精神分析を本当に患者のものとしてとらえなおして行こう、という非常に大きな流れがある。大きな図式の中での分析理論のとらえ直しという風に言い換えてもいい。それがいわゆる関係精神分析の流れであり、それはKIPPがもっぱら範とする対人関係学派的な考え方の延長上に存在するのである。