2014年9月13日土曜日

治療抵抗(2)

 ただしここで、これらの社会の動きを見ることは、「治療的に抵抗を克服する」、ということがどういうことなのかを知るうえでいろいろ考えさせられる。社会の動きに関しては、例えば当事者が抵抗をしなくなったのは、本当に反省したからなのか、その抵抗よりさらに強い抵抗にあってねじ伏せられたのかが難しい。というよりほとんど後者の場合に相当するのではないか。そして同様のことが治療関係にもありうる。
たとえばある治療者にとって明らかな患者の無意識的な空想について、解釈を行う。最初は患者は抵抗していたが、「徹底操作working through」を続けることでそのうちそれを受け入れたとしよう。このような経緯は精神分析の発表では実によく聞かれるが、それも実は同じような意味を持っているのかもしれない。
たとえばあるケースで引きこもりを続けている息子について、父親に対する隠された敵意を解釈していったとしよう。父親に対する反抗から、あるいは「父親は自分の育て方を誤ったのだ、ということを証明しようとして」引きこもりを続けているという理解に治療者がいたる。患者は最初はそれを否定していたが、やがてそれを受け入れる、というケースを考えよう。果たしてこの抵抗は正しい形で克服されたのか、それとも患者は治療者に屈してしまったのか、これは実に大きな問題なのだ。
ちなみに酒がやめられない、などの自分の問題を克服できないで抵抗しているときに、何が問題になるのかについて、フロイトは通常私たちが思いつかないような無意識内容を指摘した。それが皆さんにわかるだろうか?「処罰欲求の充足」なのである…。これはフロイトが非常に偉大だったのか、それともあまりその思考が現実的ではなかったのか?難しい問題だ。

さて少し話をもどそう。フロイトが抵抗を最初は想起することへの抵抗と考えた。この話はある意味では納得しやすい。フロイトは神経症にはことごとく性的トラウマの記憶が眠っている、という考えがあった。1897年に棄却したいわゆる「性的外傷説」である。この前提があったからそれを思い出せない患者は抵抗しているということになる。こうして抵抗の概念が生まれたのだ。しかし外傷説を棄却することにより、抑圧されているのは性的欲動ということになった。するとそれを認めることに対する抵抗、という意味に移っていったわけである。やがてトラウマの記憶は欲動にとってかわった。トラウマの記憶をすべてにたどるのは不可能だからだ。