2014年9月12日金曜日

治療抵抗(1)


●はじめに
抵抗についてまとめる必要が生じた。(単なる講義の準備じゃないか!)
精神分析に治療抵抗、ないしは抵抗という概念がある。これはどちらかと言えば、「お高く止まった」貴族的 aristocratic な概念で、個人的には好きになれない。なんとなれば、「治療がうまくいかないのは、治療者の私のせいではない。患者が抵抗しているからだ」となるからだ。それにこの概念は、「患者がある自分の心の真実を認めようとしない」、というニュアンスがあるが、それは治療者側がそれを見通しているという前提がある。そこがパターナリスティックな感じがする。通常の精神療法で患者が何を見て見ぬふりをしているかは、治療者にも患者にも簡単にはわからないのだ。それを治療者のほうだけ見えていて、「患者が抵抗している」というのはどうもね。
 しかしこの抵抗という現象は、実は私たちが日常生活で、自分自身にも、他者にもしばしば体験することであるのも事実である。というのも、私たちが認めようとしない当のものが、早くから外に、ある意味では自分にさえ見えていることがあるからだ。例えば私たちの大部分は、何かしら悪癖を持っている。それが有害なことは自分も周囲もわかっている。しかしそれを変えることに抵抗する。お酒が悪いと自分でもわかっているのに、飲酒の悪癖をやめることに抵抗をする。
 社会でも同じことが起きる。某大国では、他国の脅威になっているにもかかわらず、それを認めることに抵抗を示し、(というよりもまったく否認して)日本のことを軍国主義だと決めつける。
あるいはある某新聞社は、数十年前にかなり致命的な過ちを犯したことを認めた。しかしなかなか謝罪をしない。いろいろ事情があるのはわかるが。あたかもその過ち自体の深刻さを認めることに抵抗しているようだ。すると当事者が必死に抵抗している事実が周囲の目にはあまりに明らかな状態になり、集中攻撃を受けたり、そのこのサイトが炎上したりする。この新聞社は、その態度の批判をする評論家の記事を載せまいとして問題になり、謝罪するに至ったことはよく知られている。

あるいはある某大学医学部で臨床研究を行う上での不正が行われた。最初はそれを認めることに抵抗したが、等の学生が反対して、ようやく話し合いを持ち非を公に認めるようになったのである。