2014年9月7日日曜日

ブロンバーグの解離理論(6)

錦織くんやった!
「ハイデルベルグ」の旅は、このままうやむやにして終わらそうという意図が明らかである。

5章 「大人の言葉」では、無意識的空想についての考えが展開される。この特にクライン派の精神分析ではあまりに重要なテーマにどう対峙するかが、ブロンバーグにとっても重要であるらしい。ちなみにこの概念は昔から評者(ワタシのこと)にとっても悩ましい概念だった。無意識的空想の内容について少しでも明確にしようとしたら、それは「意識的」になってしまうのではないか?そもそも無意識で考えるってあるんかい?という分析家としてはとんでもない疑問をつい持ってしまうが、精神分析の歴史でも実はこの概念の持つジレンマを口にした人は多いらしい。グロッツテインもそうだったという。「分析家が患者とともに本当の意味で言及することができるのは、すべて意識でき空想であり…」と述べたという(p181) ブロンバーグの場合も同様の疑問を持っていることが吐露されている。「私が無意識的空想という概念を受け入れることに気が進まないのは、理論的というよりもむしろ臨床的なためらいなのだが、実際には理論的なためらいもある」(P185) という。「精神分析では、患者が分析家に自分の無意識的空想を打ち明けるのではない。患者は自分自身の無意識的空想そのものであり、精神分析という行為を通して分析家とそれらを共に生きるのだ。」ここらへんですでにエナクトメントのことを言っているのがわかる。彼のいうとおり、患者が無意識内容を「打ち明ける」というのがそもそも矛盾している。言葉にした時点ですでに対象化しているのだし、その意味では無意識ではない。それを行為に出してしまうところが無意識的であり、その際はその行為そのものが無意識(的空想)というべきである。なるほど。ここから結局解釈などによる内容ではなく、関係性がより重要だという議論に入っていく。「ボストン変化プロセス研究会は、対話の領域が広がり、流暢さが増すことが、治療を通して永続的なパーソナリティの成長が引き起こされるために一番大切だと論じている。」これは「解釈中心主義」への挑戦とも読み取れる。
  さらに無意識的空想は、しばしば「洞察」と結びつけられる、とブロンバーグは語る。無意識には内容がある=その内容を解釈するのが精神分析である。=精神分析は洞察を得ることが目標である、と統治されるだろう。しかし「洞察とは茂みに隠れている動物を発見するようなものではない。それは隠された過去の現実を暴くものではない。それは現在の経験の意味の再組織化であり、未来とかこの両方へ向かっての、現在における再方向づけなのである」(P191) 。つまり洞察という概念を棄却したわけではないが、より関係論的に再定義できるというわけだ。
この後ブロンバークは、分析家は知覚を研ぎ澄ますことが重要であるという主張に移る。「外傷と解離によってダメージを受ける様々な精神機能の中でも、知覚は一歩ぬきんでている。」(P.200)しかし知覚は、患者の心をいくつかの部分の布置として全体として眺めるとき、そして解離的な状態の変化を察知するためにも欠かすことができないのだ。
この章の最後に、「解離と葛藤の弁証法」の話が出てくるが、これは悩ましい。というか奥が深すぎてよくわからない。人の心は解離と葛藤の弁証法として、つまりは両方が書くことのできないメカニズムとして働いているとすれば、これほど都合のいいことはない。なぜなら「解離の議論は、抑圧の議論と相互補完的ですよ」と言えるし、解離の議論は精神分析を豊かにこそすれ、それを攻撃するものとはならない。平和主義の私としてはこれはうれしいことだ。ただし解離の議論には、抑圧理論の弱みを突いているようなところもあり、場合によっては解離一辺倒の議論さえ成り立つような気さえしてくるから悩ましいのだ(今日はとにかく悩ましい話が多い。)