第6章 「これが技法であるならば、最大限活用せよ!」もいろいろ考えさせられる。ブロンバークは、治療は技法なのか、という永遠の問題に取り組む。彼は治療プロセスを自らの書くという活動と類似させ、「あらかじめ選ばれた概念的なトピック」が自分をとらえるのではない、とする。すなわちそこに生き生きとと立ち現れるものこそが重要だというのだ。ブロンバークはそれを否定してはいない。「『技法』が暗黙のうちに存在していることに気がつかないと・・・その技法と内的に一貫性を保ってはいても、二社間の細かな探索の可能性を閉ざしてしまうような聞き方のスタンスを生み出してしまう。」(P155) と書いている。
ブロンバークは技法のひとつとしてフロイトの「自由にただよう注意」を挙げる。これはフロイトが「強制的な技法」ではない自由な技法として提唱したが、患者の言葉の意味を見出すという作業にとってかわることにより、校正の分析家たちにとってはその目的を果たさなかった。しかし関係精神分析的な「聞き方」とは、「絶えずシフトしていく多重のパースペクティブ」に調律することで、それは両者によるエナクトメントにも向けられるという。
この後ブロンバーグは演奏活動を引き合いに出すが、それは技法と、ある意味ではそれと対置的な自発性を考えるうえでわかりやすい。すぐれた演奏は単に楽譜を追って楽器を操るだけではない。そこに「湧き出る」音楽がなくてはならない。そしてそれは演奏に感情的、身体的に巻き込まれ、作曲家が曲を作っている間に感じた感情を表現するものであるという。治療についてもそれは言える。そこには規則や決まりに従った部分があるが、それだけで治療は成り立たないのである。このことは講演などにも言えるかもしれない。書かれてものを朗読するのか、それとも原稿を見ずに語るのか。
ともかくもこのような分析的なかかわりは、多くの分析家が異口同音に表現しているものだ、とブロンバーグは言う。ウィルマ・ブッチの「象徴化以前のsubsymbolic」、ドネル・スターンの「未構成の unformulated」、そしてブロンバーグ自身の「解離している dissociated」体験。ジェシカ・ベンジャミンのサードネス thirdness の概念化もそれに関係しているという。