2014年9月21日日曜日

治療者の自己開示(6)

今日は研究会。素晴らしい天気だ。

相変わらずこのテーマ、出口が見えないまま昔の私が書いたものを追っているが、治療者が自分の個人的な情報を伝える、という自己開示、様々な意味を持つ可能性がある。ちょっと自由連想してみたい。一筆書きだ。
 治療もある種の交流である以上、治療者の表出はことごとく自己開示という極端な理論が成り立つ。たとえ黙っていても「黙っている」という意志の表明であるという意味では。解釈も実はそうだ。フロイトは解釈は客観的な描写に過ぎないと思ったのだろう。例えば内視鏡を見る医者が「あなたの胃にはポリープがあります」というのと同じような意味で「あなたの無意識内容はAです」も自己開示ではないと考えたのである。しかし無意識がそんなに見え見えではないことがわかっている現代では、明らかにこれは治療者の考えの表明ということになる。以上の議論はいわば、「どれもこれも自己開示」という極端な話だ。
次にこの自己開示の中で、非治療的な可能性を持つものとそうでないものを分けてみよう。フロイトによれば、非治療的な自己開示は、患者が治療者に対して持つファンタジーや転移の幅を狭めてしまうものである。例えば治療者が「私はまだ候補生で修業の身です」と伝えたら、患者がむける理想化を大きく制限するということになるだろう。ということはフロイト的にはこの種の情報を伝えるべきではないということになる。
 ではたとえば「私はあなたの話に驚きました」と治療者が患者に言ったとする。これは非治療的に働くのか? 患者が治療者の持つ感情を様々に想像する可能性を狭める、という意味で治療的とは言えないのだろうか? うーんここら辺から議論が錯綜してくるのだ。一つには「治療者がベールに包まれることで転移の幅が広がる」という議論そのものの信ぴょう性が疑われることがある。そうしてもう一つ、たとえこの主張が正しくても、それが治療的かどうか、というのは別問題だ、ということがある。
つまりこの分析的に常に議論になる転移の幅の問題は、二重の問題をはらんでいる。私見を言えば、私は治療者がベールを一部はぐことで、転移の幅が逆に広がるということがありうるという。つまりこの提言は逆の場合がある。それともう一つ、転移の幅がたとえ広がったとしても、それが治療的とは限らないと思う。以下はそれらの説明。
例えば治療者が「訓練中です」と自己開示をした場合、訓練を受けているという治療者のファンタジーはとてつもなく広がる可能性がある。最初はすでに正式の分析の資格を得た分析家か、それとも修行中かわからず、結果として治療者の資格の問題についてあまり関心を持っていなかったかもしれない患者が、その自己開示により想像性を膨らませるということが十分ありうるだろう。これは例えば治療者が「私は既婚者です」と自己開示をした場合をとっても同じである。この自己開示をもとに、既婚者としての治療者に関する想像力が解き放たれるからだ。
それともう一つの問題。転移の幅が広がることは患者を不安にする可能性がある。患者がある重大な出来事を治療者に伝えたとする。治療者は顔色一つ変えないとしたら、これは不安を生むだろう。治療者は生きた人間なのか、という疑いさえ生みかねない。治療者は自己開示により生きて血の通った人間であるということが示されることで、初めて治療関係が安全に保たれるということもあるのだ。

こう書いていると、いかにも私は自己開示肯定派という風に読めそうだな。