2014年9月22日月曜日

治療者の自己開示(7)

 今日も一筆書き。

こんなことを考えているうちに自己開示を分類したくなった。「広義の自己開示」を考えよう。それは患者にとって目に映る、耳に聞こえる、ネットで調べられる、治療者について表現されていることのすべて。たとえばオフィスの椅子の配置、机に置かれている写真立て、壁にかかっている絵など。治療者の顔、表情、声の調子もすべて含まれる。こうなるとこの広義の自己開示、どこまでが治療者固有の情報かがわからないことになる。たとえば壁の絵は、前のオフィスの所有者が置いて行ったものかもしれない。カウチは施設で勝手に用意したものかもしれない。しかもそれらの事情は治療者やその他の誰かが説明しない限り明確でない可能性もある。初めて会った治療者が嗄れ声をしていた場合を考えよう。それが彼独特の声かもしれない。しかしそのとき彼はたまたま風邪をひいていただけかもしれない。すると「治療者は嗄れ声である」はある意味ではその治療者に固有であったり、外的な事情に影響を受けた結果であったりする。なんだかこうやって書いただけでもムズカシー。
 この広義の自己開示をさらにあえて分類するならば、治療者が積極的に開示しているものと、特に隠す必要がないので患者にさらしているもの、つまり消極的に開示しているものに分けられるだろうか。前者には、たとえば治療者が選んだ壁紙や絵や、凝った椅子やカウチなどが含まれよう。特に同僚の思い入れのこもったプライベートオフィスに案内されたりすると、それらの数々に圧倒されることになる。それはたとえば誰でも使えるオフィスなどのように、最小限の家具しか置いていない味もそっけもないオフィスとはずいぶん違う。昔メニンガーでまだカウチを持たない生徒用のオフィスをしばらく使った後、自分のカウチをあつらえて(精神分析用のカウチなど市販はしていなかった)自分のオフィスに招き入れたことがある。その時はちょっと緊張したものだ。まあともかくも、以上が「治療者が積極的に開示しているもの」。
 後者には様々なものがある。分析家の出版物などもそうだろう。患者が「読みましたよ、先生の○○○という本」と言ってきた場合、「何のことですか?」とシランプリは出来ない。しかしこれが積極的に開示しているものかと言えば、ちょっと違う気もするのだ。だから後者に入る場合が多いのではないか。(もちろん治療者が皆に配って読んでほしい、できれば患者にも、という場合には前者に属する、ということになるだろう。)