2014年9月20日土曜日

治療者の自己開示(5)

このジュラードの示した態度は古典的な分析技法に対する勇気あるアンチテーゼとして傾聴に値するといえる。治療者が自分を開示した分だけ、患者の側の自己開示が促進される、という現象はおそらく治療場面で実際に生じている可能性がある。そしてその機序の一つは、治療者自身が自分の姿をある程度あらわすことで、患者の側にも自分が精神的に裸にされることに対する抵抗が和らぐという機序が働くのだろう。
ただし治療者が極端に自分を表現した場合、場合によっては転移の自由な発展を阻害することで、分析的治療自体の変質を招くおそれがある事を忘れてはならない。結局治療者の自己開示は、それが微妙な匙加減をもってほどこされることでその効果を発揮するといってよさそうである。臨床例1がいみじくも示す通り、私が行なったわずかな量の自己開示は、私がそれ以外では一貫して匿名性を保ったことにより意味があったのだろう。また同様のことは、臨床例4についての考察で述べたように、クライエントとしての私自身が、私の治療者に対して感じたことでもある。 
 これとの関連でやはり重要なのは、患者が治療者のプライバシーや実体を知りたくない、という気持ちがあるとしたら、それもまた尊重することである。ストリーン(Strean,1981)はこの事情を、患者が治療者を、目にすることが出来ず全能的な神として体験したいと願うことと関連すると述べる。一般に患者が治療者を自分の連想を自由に投影出来る対象に保ちたいという欲求は無視出来ない。しかしそこにはもう少しわかりやすい理由もあろう。それは治療者を保護したいという、時には過剰な配慮である。臨床例4で私自身が体験したように、治療者のプライバシーを知ることには、他人の領域を侵害してしまっているという不快感が伴いかねないとすれば、治療者のプライバシーを守りたいという私の気持ちは、治療者を苛立たせたくない、怒らせたくないという気持ちと複雑に絡みあっている可能性があり、それ自身が治療で扱われなくてはならない問題である。

 この、関係性の中で患者は治療者のことを知りたくないという気持ちを大切にしたい、というのはその通りであるが、これはなぜ生じるのだろうか? ファン心理を考えてみたい。たとえばある歌手が薬物を乱用していたということで、そのプライバシーが暴露される。ファンとしては興味津々という部分と、「見たくない、聞きたくない」という部分があるだろう。超有名演歌歌手の最近の醜聞についてもそれは言える。ファンとしては失望したくないわけだ。もちろん治療者が自分を示したからと言って、それが失望につながるとは限らない。しかし「なーんだ、普通の人間なんだ」とはなるだろう。
しかし治療者の個人的な情報が、特に失望につながらない場合もあろう。例えば治療者がA県出身、B大学を卒業、Cという会社に勤務した経歴を持つ、ということを知ったとする。もちろんB大学、C会社が持つ社会的な意味もあるだろうが、基本的には本来持っていた治療者のプロフィールとしての情報が若干詳細になるだけでさほど意味はないだろう。ネットで治療者についての情報が様々に検索できる世の中である。治療者が匿名性を維持して個人的な情報をかたくなに伝えない意味は昔ほどはなくなっているものまた事実なのである。

 ともかくも私がこの論文で至った結論は極めて常識であるといっていい。それは以下の通りだ。「治療者の自己開示は、それが患者との関係性の全体に及ぼす影響を考慮した上で為される場合にこそ治療的になり得る。すなわち自己開示を極端に控えることにより生じかねない患者の抵抗と、それを過剰に行なうことによる様々な問題点とを常に秤にかけた上で、最も適切な形でおこなわれるべきであろう。」