2014年9月19日金曜日

治療者の自己開示(5)

4 考察
ということで、私は20年前に何を考えたのか。まあ今から読み返しても、大体当たり前のことである。
 一般に古典的な分析的治療における患者治療者関係は「不平等」で「一方に傾いている」(Greenson,1967)といわれる。すなわち患者が自分のことについて自由連想することが分析における基本原則である一方、治療者は分析の隠れ身に守られて姿をあらわさない。この通常の人間関係とはかなり異なった、いわば人為的な二者関係の設定は、それが生み出す治療的意義は別にしても、多くの人にとってその継続を困難なものにする可能性がある。この傾向はBのように病態水準の低い症例で特に顕著であるとしても、そうでない場合にも治療同盟を結ぶ上での障害となる可能性がある(Greenson,1967)。病態水準の低い症例に対する支持的療法が、この事情を基盤のひとつとして発展したことについては先に述べた。逆に言えば、この一方向性は、ラポール形成にとっては必ずしも良くないというわけである。ということは、匿名性がBPDにとっては治療的でないということは、神経症の人にとっても同様で、ただし神経症の人々はそれに耐えられる、というロジックも成り立つであろう。

ここで治療関係における治療者-患者関係を、二人の平等な人間が持つ関係という視点に立ち返って眺めてみる。この二人の人間が仮にも一定期間対面する場合、互いに相手に対する好感、相手から認められているという実感を持つことは、その関係の継続にとって必須のものといえる。そしてさらにそこには、相手に辱められていない、その前で自分をさらけ出してもそれが深刻な恥の体験にならない、という関係が成立していることが大切である。患者にとっての最大の抵抗の一つが、治療状況における恥の感情である事は、私が前著(岡野、1998)で強調した通りである。これらの点を無視して分析的治療関係を考えるわけにはいかないであろう。
シドニー・ジュラードSidney Jourard1971)は、そのような視点に遡って自己開示の問題を据え直した。彼は一般人を使った実験を通して、人間が互いに自分のことを語るという行動に関して、「対効果 dyadic effect という現象がみられるとした。この「対効果」とは、人間が自分に自己を開示してきた相手に対して、自分もより多く自分自身を開示する現象だという。ジュラードはこの「対効果」を「科学的な裏付け」とし、自分の精神療法の在り方をより「人間的」なものに近づけ、患者が現在体験している事柄に並行した自らの体験を話し、また治療場面での自分の感情をも話すことで、「より良好な患者治療者関係を築くことが出来た」とする。

この「対効果」あたりまえといえば、当たり前の話である。