2014年9月4日木曜日

ブロンバーグの解離理論(3)

4章「解離のギャップに気を付けて」では、従来の精神分析とブロンバークの立場の違いが明確に示される。「[葛藤を]患者がそれを経験できていない時でさえ常に精神機能を組織化しているように考える」(P84)古典的な立場において、ブロンバークは葛藤への防衛が必ず解釈により解決するという姿勢を問題視する。彼の立場は基本的には欠損モデル、ないしは外傷モデルのそれであり、発達過程で認識されないことによる外傷を重視するのだ。(彼はそれを、性的虐待や暴力などに代表される、大文字の外傷 Trauma と区別する。) そしてその結果として生じるのが、解離された「私でない自己―状態」なのである。
 「私でない自己―状態」は、治療者と患者の両方により解離させられ、エナクトされる。そのような治療関係においては、治療者は患者の話の内容よりは情動的な反応を行う。それにより自己状態のシフトが感じられるからだ。そしてこれが本省の表題にあるような「解離的なギャップに気を付ける」ことの意味であるという。
解離のギャップに気を付けるブロンバーグの患者へのアプローチは、あたかもDIDの患者さんへの語り口のようだ。「私は、あなたには後ろに隠れている別の部分があって、その部分は、私が今しがた言ったことを嫌っているような気がするのです。」(P90)という言い方を紹介している。「解離的なギャップに気を付ける」治療者は同時に、葛藤を前提とした言葉の言い回しには注意を喚起する。患者の言葉を抵抗と見なす傾向、矛盾する連想の内容を合理的に解釈する傾向。そこにはカンバーグ流の「スプリッティングの解釈」も含まれる。いずれも葛藤モデルに従った「わかった風な」解釈と言えるだろうか。それに対してブロンバークは「解離が作用している限り『一貫性のなさ』には何の参照枠もない」とする。
ただし彼の理論は葛藤を排除するものではない。「精神機能が本来、解離と葛藤の間の弁証法である」と言い、葛藤(抑圧、と言い換えてもいいだろう)と解離が排他的ではないことをも示している。
この章の最後に出てくるマーサは、一見してDIDの病理を持っているようであり、彼女とのかかわりはブロンバーグが実際に解離の病理をどのように扱うかの良い見本となっている。この章の最後に書かれたブロンバーグの次の言葉を抜き書きしておきたい。
 治療に参加した患者の夢見手(解離した心的な空間の中に住まう部分)の「存在が最も有用であると感じられるのは、エナクトメントの最中、特に分析家が自分自身の「夢見手」が患者の夢見手と同期して『目覚める』のを見出した時である。」治療とはまさに治療者側の解離された部分と患者のそれとの出会いを達成するものであるという。