2014年9月15日月曜日

治療者の自己開示(1)

 大人の事情は続く。今度は治療者の自己開示について考える必要が生じた。なかなか本題「解離」に戻れないなあ。
「私は新しい精神分析」という本のある章で「分析の隠れ身」の再考と治療者の自己開示 (治療者の自己開示は治療的となり得るか?)という疑問を呈したことがある。この論文は1991年に精神分析研究に受理されたものであるが、本格的な分析のトレーニングに先立つものだった。今だったら決して受理されないようないい加減な論文である。私はメニンガークリニックでレジデントのトレーニングを介したころだったが、そこは分析中心だということもあり、いくつものお作法があった。しかしそれに従わないことで治療がうまくいくということがよくあった。
ある患者さんは、私が精神科のレジデントで日本人だということを告げたら、大変感謝された。「ここでは先生方はだれもそうやって自分のことを話してくれません」という。私は匿名性の原則ということを常に考えていたので、そういわれることで深く考えさせられたのだ。治療者が自分を語ることはそもそも治療的な行為になりうるのか? もしそうならば、どういう場合にか? またどのような場合にそれが非治療的になるのか? これは精神分析の治療者となる上で私の前に突き付けられた大きな問題だった。
従来の分析療法の原則としてよく耳にする「分析の隠れ身」analytic incognitioを私はなんとかたくなに守ってきたのだろう、ということを、精神分析のメッカで改めて考えさせられることになったのだ。
そもそも治療者の自己開示の問題は、非常に悩ましい。考えれば考えるほどわからなくなる。治療者がことさら自分のことを患者に知らせようとしなくても、確実に伝わっていくものもある。私たちの身なりや言葉の使い方そのものが実に多くのものを患者に明らかにしているだろう。この様な問題についてどのように考えたらいいのであろうか?私達はそれを防ぐべきなのか、それとも放っておくべきなのだろうか?

実は治療者が自分という具体的な姿を患者に示すかどうかという問題は、精神療法の根幹に関わってくる問題でもある。精神療法は、いかに受け身性を守りつつそれを行なったとしても、そこにおのずと治療者の全人格が動員されることになり、その意味では治療過程はまた治療者の特殊な形での自己表現の過程ともいえるからである。そしてそれぞれの治療者が上記の疑問に対して暫定的に答えを用意していることになろう。彼らはともかくも患者を毎日扱っていることは事実であり、そこには自分を隠すのか示すのかについて何等かの形の基準を設けているのが普通だからである。しかし臨床場面での実残の仕方はおそらく患者の病態、治療方針、あるいは治療者の所属する学派により様々に異なるのであろう。・・・・しまった、ここら辺かなり昔の「新しい精神分析」からコピペしてしまった。まあいいか、自分の本だからね。