2014年9月16日火曜日

治療者の自己開示(2)

今日のところはほとんど以前書いた分のコピペだが、実際いいことを書いてある。訂正の必要はほとんどない。
古典的な分析技法の視点からは、治療者が自分の感情を語ることのみならず、自分自身に関する事柄を患者に伝えることは、古典的な分析方法からの逸脱とされるのが一般であった。フロイトは「医師としての分別」(1919)ないし「禁欲原則」(1914)を強調し、治療者が自分のことを語ることを原則的に戒められていたのである。そしてそれを「分析の隠れ身」という言葉で、より鮮明に打ち出したのが、ローレンス・キュビー Laurence Kubie (1950)という分析家であった。彼によれば、精神分析においては分析の隠れ身は中立性などと同時に守られなくてはならない原則とされ、治療者が自己を表すことは、患者の転移を写しだすスクリーンとしてのあり方に歪みをきたすことにつながると考えられた。例のブランク・スクリーンモデルの登場である。古典的な分析理論からは、治療者が患者に施すべきなのは唯一解釈であり、治療者の自己開示を含むそれ以外の介入はおおむね不適当とされてきたのである。
このように書くと、「解釈は治療者の考えであり、その意味でそれを伝えることは自己開示ではないのか?」という疑問は当然起きるだろう。しかしフロイトは解釈は自己開示とは考えていなかった。それは解釈とは本来患者が持っている無意識内容を分析家が感じ取り、伝えることだからである。フロイトは分析者の役割は自分の無意識を使って患者の無意識内容を「受信」し、それを患者に伝えることだと考えた。ある意味では解釈とは、鏡の役割を果たす分析家が患者の無意識内容を映し返したものではあっても、自分に光源や投影すべきイメージがあるわけではないと考えたのだ。そう、光源はあくまでも患者側、という考え方がポイントなのである。

フロイトの著述には、分析者が個人的な事柄を持ちこむことを直接的に戒めている個所がある。それによると、分析者が自分を語るような手法は解釈とは異なり、彼が繰り返し禁じた「暗示Suggestion」、つまり患者にとって直接無批判に受入れられるもの、「患者の無意識を明らかにすることには役に立たないもの」(Freud,1912a,p118)と説明されている。
さらにフロイトの記述を読んで気が付くのは、彼には患者の自然治癒力を重んじるといったところがあり、それに対して治療者が自己開示を通して自分の考えを植え付けることは、その自然治癒を妨げる、といった考えもあった。この考え方は、治療者が自己を現わして患者のあるべき姿や進むべき道を示すという方針とは根本からそぐわなかったものと理解できよう。
 とはいえ古典的な精神分析は治療者が持つ個人的なファンタジーや患者に対する個人的な感情は無意味だと考えたわけでは決してない。治療者に起きる様々なファンタジーは、患者の病理に対する反応であり、従ってその病理を知る手がかりとして大きな意味を持つのである。ただしそれはいわば治療者の心の中だけで扱われ、患者にそれを話すという形で処理されるということは考えられなかった。そのかわり治療者は自己の力でないしスーパービジョンを通してそれを意識化した後、患者への解釈の中に生かすという形をとるべきだと考えられたのである。
さてフロイト以後、古典的分析理論はさまざまな形での検討を加えられてきたが、その過程で治療者の自己開示の問題も、徐々に話題にのぼることになる。しかしこの問題についてはなかなか統一された見解に行き着くことが出来ず、依然としてその立場は論者により大きく異なっているのが現状といえるであろう。しかし少なくとも「分析の隠れ身」を厳密に守る立場は少数派になりつつあることは確かなように思われる。
もうずいぶん前のことであるが、フィリス・グリーネーカー Phyllis Greenacre1954)という分析家は、治療者に匿名性を重んじることを勧め、公的な場に出ることや特定の主義思想に関係することさえも戒めた。つまり彼女は治療者である限りは、社会生活においてもその匿名性を守るための努力をしなくてはならない、と説いたわけである。しかし現在ここまで極端な立場を取る臨床家は非常に少数派であろう。また前出のグリーンソン(1967)の精神分析のテキストは自己開示についてそれを条件つきながら肯定する立場をすでに取っている。彼は分析家が自己開示をすることは転移性の空想の自由な発展を難しくすることを認めながらも、他方では「厳格なよそよそしい態度と過剰な受け身性は治療同盟そのものを損なう」として、古典的な分析理論に基づく治療者の匿名性に対して問題提起を行なっている。
治療者の自己開示についての関心は、古典的な手法では多くの場合治療不可能な境界人格障害に対する認識が発展してきたことにも付随して生じてきた。その過程で、分析的精神療法の中でもいわゆる古典的治療法により近い表出的療法と共に、より重症例に多く用いるべき支持的療との使い分けが論じられ(4部第1章参照)、治療者の自己開示は後者においてひとつの重要な要素として認識されるようになった。ここは大事なところだ。ボーダーラインが治療対象として入ってくることで、古典的な分析は様々な修正を強いられることになったわけである。
 ポール・ドワルドPaul Dewald1971)の精神療法のテキストは、治療者が自分の「個人的な情報を伝えること」を、支持的療法において有効な場合があるとして認める。それによれば、洞察的療法では治療者の自己開示が転移の自由な発展を阻害するものであるのに対し、支持的療法ではそれが治療関係の現実性を強調し、陽性の疎通を形成し、二次過程の思考を強化するといった方針にとって有効であるとされる。
 さて以上治療者の自己開示という問題の生まれる歴史的背景を大まかに追ってみたが、私自身が自己開示の問題に興味を持ち、その治療的意義を考えるようになった事情も、上述の歴史的経緯と並行していたといえる。つまり始めは古典的精神分析技法を遵守しつつ、自分を語ることを強く自らに戒めながら治療を始めたものの、何人かの患者でそれがうまくいかず、また自分自身もそれについて理由のわからない違和感を持つ、という体験がいくつか続いた。特に私が臨床の中で自己開示一般についての問題を多く考えるに至った文脈として、次の二つを挙げる事が出来る。
 まずひとつには、私が自己開示を行なうことが患者との関係全体にもたらす影響についての関心が生じた。具体的には私がかたくなに匿名性を守ろうとしたことで、一部の患者では早期から治療に対する深刻な抵抗をまねいてしまうという問題に出会ったのである。ある患者は、治療者の私の個人的事情を知ることに非常に固執し、一切個人的なことを語らないという私の態度に腹を立てた。患者が私の個人的な事柄について問うてきた場合に、「どうしてあなたがそれを知りたいかについて、何か考えはありますか?」と答えるパターンは、精神療法のテキストにはよく出てくるが、そのような紋切り型の介入を行なった際、患者の苛立ちが一層増したというケースも何例かあった。この種の不満がもとで激しい陰性転移を向ける患者はおおむね境界人格障害の患者に限られたが、神経症レベルの患者でもそれにこだわりを持ち、持続的な陰性転移や治療抵抗のひとつの原因になっていると思われることもあった。またそのようなケースでは私自身もより防衛的になり、治療にとって必要とされる柔軟性を欠いた態度で患者に接していたことを私自身が自覚することがあった。そしてそのような場合は匿名性の厳守を緩めて適度の自己開示を行ない、顔の表情やうなずきにより私自身の気持ちを伝えることだけで、治療室内の緊迫感が緩み、自分でもより自然なリズムや自分らしさを取りもどせたと感じたことがしばしばあった。

 私は治療者の自己開示というテーマにもうひとつの文脈において行き当たった。それはこの自己開示を個々の治療状況における解釈その他の治療技法として使えないかという疑問が、患者を前にして頻繁に起こったのである。私は自分自身のプライベートな情報について語ることに意味を見出すことはまだ少なかったが、治療場面で私の中に起きる感情については、時にそれを患者に対して言葉で伝えることが極めて自然のなり行きのように思えることがあった。そして実際に何気ない自己開示をしてしまった後に、それがうまく行ったと感じられたことが時々あった。しかもそのような場合は特に自分が分析の隠れ身の原則をおかしたという気がせず、どの様な理屈からそのように感じられるのかわからないことがあった。またその自己開示が果たして分析技法にかなったものなのか、といった点も依然として不明のままであった。これらの疑問が治療者の自己開示について掘り下げて考える切っかけとなったのである。