2014年9月30日火曜日

治療者の自己開示(15)

9月の終わり思いがけず訪れた晴天の日々を楽しんでいる。台風は出没しているけれど。
しかしそれにしても香港の情勢。中国の変化の起爆剤になってくれるのだろうか。



 ちなみに治療者が「自分を用いる」という姿勢は、例えばミッチェル(Mitchell, 1988) 等による関係モデル、ないしはストロロー(Stolorow, 1992)やオグデン(Ogden, 1994)の唱える間主観性の考え方とも一致している。これらの概念はいずれも、治療場面とはいわば患者と治療者の主観の融合、ないしは両者から独立して創造された空間である、という見解を表わしているからである。
 この治療者が「自分を用いる」こと、という表現は、ジェイコブスの「自己の使用 The Use of The Self (Jacobs,1991)という近著のタイトルに依拠している。ジェイコブスは、この概念についてのヒントを与えているのもまたフロイト自身であることを指摘している。そしてさらに興味深いことに、そのフロイトの論文は治療者の自己開示を戒めている上述のものと同じものである。
 「分析医に対する分析治療上の注意」(1912a)の別の個所によれば、「彼[治療者]は、自分の無意識を、発信している患者の無意識に向けられた受信器官 receptive organ, (empfangendes Organ )にしなくてはならない。彼はちょうど発信しているマイクロフォンに対して調節する電話のレシーバーのように、自分を調節しなくてはならないのである。・・・・・ただし自分の無意識が受信したものに対しては、それを意識から隠したいといういかなる抵抗も許してはならない。」(p. 115
 フロイトは、このように自分の無意識をあたかも感覚器官として用いることについて論じている。ただしそれにより患者の無意識を知ることについてはわかるとしても、それをいかに治療的な介入の助けにするかについては具体的に語ってはいない。そこには治療者が患者の無意識内容に対する客観的な観察者であり、彼が自分の無意識を用いて知りえた内容(解釈)を患者に伝えることで、治療が完結してしまうといったニュアンスすらある。ところが上述の「自分を用いる」ことの関係論的な意義を考えるならば、治療者が受信したと思っていることについて、それを最終的なものとして解釈する代わりに、あくまでも一つの素材として患者に問いかけ、その妥当性を照合していくのも治療の重要なプロセスとなる
 治療者が「自分を用い」つつ行なう介入はまた、解釈以外にもさまざまなものが考えられることになる。それは治療者側の個人的な体験を積極的に語る「自己開示」の形を取る場合もあるが、それ以外にも治療者側からの観察をフィードバックすること、ロールプレイングを行なうこと、自分自身を逸話の登場人物として第三者的に語ること、さらには自分の持っている必要な情報の提供等があげられよう。
 以下に私自身が治療者として「自分を用いた」と思える例を挙げたい。ただしこれらの介入の意味や効果のすべてを私自身が十分に承知した上で行なったとは言いがたく、むしろ試行錯誤で行なったというニュアンスもある。しかしいずれも同テーマについて考える上での素材を提供してくれているものと考える。

3 臨床例 (省略)


4 考察

 事例Dでは、私はロールプレイングにより思春期の患者としての役をする形で、自分を用いたことになる。ロールプレイングは「役割を演じる」というその意味とは裏腹に、「自分を演じる」という要素もまた強い。特にそれを即興で行なうことを迫られた場合には、役割と自分自身を切り放すことは非常に難しい場合がある。この事例に示した私の関わりについても、そこでの感情表現はなかば私自身のものであり、また時には私自身の思春期の体験について語ったこともあった。ただしそれがどこまで私自身を演じているかはEに対して直接には伝えられず、またEもそれを特に質問しなかった。その意味では私は私自身を積極的に用いたとはいえても、「自己開示」を行なったとはいえないであろう。
 Eに対するこの介入のどの部分が彼にとっての助けになったかは特定することはできないが、少なくとも私が治療者としての受け身性を一歩抜け出してロールプレイングを通して自分を提供したことが、このようなEの反応を引き起こしたものと考えられる。
 事例Fにおいては、私が彼女に対して怒りやフラストレーションを感じ、それを爆発させないようにと堪えていたという一連の感情の動きは、Fの目にも明らかであったと思われる。これらが私が意図するとしないとにかかわらず患者に伝わった一つの理由は、治療者としての私が一時的にではあれ実際に感情的になっていたからである。(前出のレニックはまた「治療者の自己開示は、それを意図するとしないとにかかわらず、ある程度は自然に起きてしまってしまう」(Renik, 1995)と述べているが、このような場合にはよく当てはまることになる。)
 しかし私は自分の感情の動きをFに隠そうと特に努力もしていなかった。(怒りの爆発を堪えることと隠すこととは別である。)むしろ私はFも私の葛藤をなんらかの形で知るべきであるとすら考えていた。このように膠着し、私も感情的に巻き込まれているような治療状況においては、それも一つの試みに違いないと思えたからである。また私はFに対してそれまでに十分のものを注いでいたつもりだったため、彼女に対して怒りを感じることに対する罪悪感に悩まされることはなかった。
 Fの治療態度は、それ以後はより好ましいものになったが、その一つの原因は、彼女が私を怒りやフラストレーションを感じる生身の人間として把握したことにあると考える。その意味でこれは感情を持つ私という人間が治療的に「用いられた」例といえるのである。またFは私の叱責を私からの一種の愛情表現と感じた可能性もあった。
 症例Gに対して用いたのは、私の直感ないしは感覚であり、それを語ることで私の感受性を一時的に患者に貸し与える形となった。ただし患者の自由な話の展開を遮る形で行なったこのような介入には十分な注意が必要であることはいうまでもない。そのためGとの十分な治療関係が成立していることが前提といえた。この種の介入が侵入的なものにならないためには、あくまでも治療者の直感や感覚が患者に対する押しつけではなく、両者が共同で観察するべき素材であること、それに意味を見いだすかどうかは最終的に患者が決めることであるという姿勢を明確にすることである。また治療者が自分の直感が的外れである可能性を恐れずに、しかしあくまでも仮説として提供するならば、患者が自分の連想の唐突さや荒唐無稽さに対して持つ恐れや恥の感情を軽減することにつながるであろう。
 Gに対する私の介入は、厳密な意味ではフロイトの述べた禁欲原則に反することになる。なぜなら私は患者が安心感を得たいという欲求を満足させたことになるからだ。しかしGが本来持つ脆弱さ、過去に受けた外傷体験、そしてこの臨床場面で示していた不安のレベルを考えた場合、このような支持的な介入がこの時点では必要と判断された。また私はGの質問に対して直接答えつつも、それをフォローしてその質問の意味や、私から答えを得たことへの彼女の反応を扱うことにより、治療者としての中立性を出来るだけ保つよう心がけた。
 この介入は、「治療を有意義なものに感じている」という私の感じ方の「自己開示」といえるが、ここで強調しておきたいのは、私は心にもないことを言ったのではないということである。もし患者に嘘をついてまでその不安を除去し、安心させようとしたならば、それはまさに禁欲原則をおかしたことになろう。

5 最後に

本章では治療者が「自分を用いること」というテーマについて、症例を示しつつ論じた。本テーマは精神療法の基本的な問題に触れるために、今後さらに多くの議論が尽くされなくてはならないと考える。また私が示した論点はいずれも、従来の精神分析的精神療法の技法を否定するものではなく、むしろそれが現代的な人間理解と矛盾しないように再考を加えていくことの一つの切っ掛けと考えていただければよい。その際必要なのは、治療者としての私たちが、「自己開示」をたとえ患者に対しては控える場合にも、自分自身に対しては不断に進めていく作業であろう。治療者が「自己開示」を自分に対して行なうことは、「自分を用いること」の前提条件といえるのである。