2014年9月29日月曜日

治療者の自己開示(14)


 さてこの後数年して、私はもうひとつの論文を書いた。それが「治療者の自己開示その2 -治療者が「自分を用いる」こと-」である。相変わらずよく書くなあ。       
         
 結局第一作で書いたことの要点は二つだった。
① 治療者の自己開示は患者の抵抗を和らげ、いわゆる対効果(Jourard)により患者自身の自己開示を促進する可能性がある。患者の示す最大の抵抗の一つは、隠れ身をまとった治療者の前で精神的に裸にされることによる恥の感情に由来する。そのため、治療者がかたくなに「自己開示」を回避することが、患者の恥の感情を余計に高め、自由連想を行なう際の抵抗を助長しうるという点である。
② 治療者の心的内容や患者に対する感情的な反応自体が、患者の心の映し返しとしての意味を持ち、それを患者に示すことは、それがあからさまな「暗示」や押しつけとなるのを避けるならば、積極的な解釈技法としての意味を持つということである。
 

それから数年勉強していて追加で考えたこと。
 治療者の「自己開示」が治療的か否かという問題は、治療者が「自分を用いる」ことという、より広いテーマに含めて考えるべきであろう。自己開示はいかん!という立場はかなり批判されてきている。同じことはすでに70年代に指摘され始めている(Singer, 1977))。また患者からの質問に答えない、自分を語らないという方針を守ること自体が、自分の治療方針の表現として患者に伝わっていることになるのではないかという認識も一般に受入れられつつある。またこれに関連してグリーンバーグ(1991a)は、「あらゆる治療的介入は、何かを隠すと同時に何かを露わにするプロセスである」とする。最近では、レニック(Renik, 1995)が、厳密な意味では「治療者の匿名性はあらゆる意味においても保つことができない」とまで主張するに至っている。いい言葉だなあ。
とにかく治療者の「自己開示」のみに議論を限定せず、この「自分を用いる」という概念に拡張して論じることの積極的な意味は以下の通りである。

(1)治療者の「自己開示」はその有効性が状況により大きく異なるが、治療者が「自分を用いる」という姿勢は、その状況にかかわらず、常に一貫して必要な治療態度として論じることができる。
(2)治療者の「自己開示」は、治療者が「自分を用いる」ことの重要な要素となりうるが
     「自己開示」をすべきでないという判断もまた、その状況で治療者が「自己を用いる」
      結果として下される。その際は治療者が自分の主観を用い、患者がその時点で必要と
      感じている事柄を察し、それを患者と照合するプロセスが重要となる。
(3)治療者が常に「自分を用いる」べきである、という原則に従うことで、彼が匿名性に過剰に固執することにより不必要な患者の抵抗を招くという事態を防ぐことができるであろう。
(4)治療者は常に「自分を用いる」べきであるという原則に従うことは、逆に不必要な「自
      己開示」を控えることにもつながる。治療者の治療に対する興味や熱意は、「自分を
用いる」という態度の中にすでに込めることが十分に可能なため、それをことさら「自  己開示」という形で表わす必要はないからである。

まあ、悪くないか。