2014年8月16日土曜日

エナクトメントと解離 推敲 (2)

ブログは怖い。気楽に書けば書くほど、不適切な内容になってしまい、炎上してしまう可能性が出てくる。最近もそんなニュースがあった。(もちろん私のようなサイズのブログにそれはおそらく起きないことだが。)すると記載する内容にはそれだけ注意が必要となる。これは社会的な立場で発する言葉にも全く同じ事情が当てはまるのであるが、ブログはこれほど簡便に発信することができるのにもかかわらず、その対象が不特定多数という矛盾があ理、その為に不用意な発信をしてしまうのだ。おそらく人類は(大げさだが)このインターネットという道具をまだ十分に使いこなすすべを知らないのではないか。何しろ一度発言したり掲載したことは取り返しがつかないというのが一番恐ろしいところだ。そのうちすでに出回った記事や写真を、すべてのサイトから一瞬にして消し去ってしまうようなプログラムが開発されたりするのかもしれない。もちろんそれも濫用されてしまう危険性があるだろうが。

スターンはエナクトメントについて次のような理解を示す。そもそもエナクトメントとは、事後的に、つまり起きてしまってからそうとわかるものであり、そこで「あの時は~だった」という形でそこに表現されていた自分の無意識的な葛藤を振り返るというプロセスを意味するが、それはそもそも自己の解離を意味しているのだ、というのだ。なるほど。そう来るか。エナクトメントと解離がかなり直接的に結びつくものとして論じられるのだ。
スターンは次のように言う。あなたがある時、Aという行動をする。そしてそこに葛藤を感じていないと仮定しよう。それを後になって「あれ、あの人と別れてBもありだな。なぜBを選ばなかったのだろう?」と思ったとしたら、Aはエナクトメントであった可能性があるというのだ。
少し具体的に考えてみよう。たとえばあなたがある時、「あの人(パートナー)とはもう別れたい!」と言ったとする。そしてそのこと自体に特に迷いは感じなかったのだ。そして翌日になり、「あれ、あの人と別れたいなんて、どうして言ったのだろう?今はずっと一緒にいたいと思っているのに。」そしてこの「もう別れたい!」がエナクトメントだったというわけであり、その心的内容は解離していた、というわけである。
さてこのようにサラッといわれると、それなりにわかった気になってしまう。ここで解離と抑圧を区別していることは明白であろう。パートナーと別れたいという気持ちを抑圧しているならば、それは言葉には容易に出ないであろうし、もし出たとしたら、それはアンビバレンスを含むものであり、「自分はこれを本気で言っているのだろうか?」などの葛藤が伴うであろう。ところが私が脚色をしたスターンの例では、「別れたい」と言った時に葛藤はなかったわけである。ということはその心の内容は解離とは別の形で無意識におさめられていたということになり、スターンはそれを解離と呼ぶわけである。
 しかしこの議論はまっとうなようでいて、実は精神分析の文脈ではかなり悩ましい問題でもある。精神分析では、この種のABという関係が考えられていなかった。分析的には心は繋がっているのだ。たとえ意識と無意識でも。だから患者さんの、「昨日はなぜあんなことを言ったのかわかりません」という言い分は、少なくともそのままでは治療者にはすんなり受け取られない。おそらく治療者はこう応えるだろう。「おそらくパートナーと別れたいという言葉が口をついて出てしまったんですね。おそらくそれはあなたが無意識でいつも考えていることではないでしょうか?パートナーと別れるという考えについてあなたが持っているさまざまな葛藤についてここで考えましょう。」 
 およそ精神分析のトレーニングを積んだ人なら、あるいは精神分析理論を学んでそれを臨床的な考えの中核に据えるような治療者なら、おそらく「パートナーと別れたいとは思いません」という現在の訴えをそのまま受け取ることはないだろう。しかしこうなると、「パートナーと別れたい」という気持ちが抑圧されていたのか、解離されていたのかがあいまいになってしまうだろう。

実際精神分析にこの解離の概念を持ち込んでいるスターンの筆致は、かなり分析的ではある。「私は自分自身で直接体験することが耐えられないような自分の状態を『演じて』、元の解離する以前の状態に無意識的な影響を及ぼす。」つまりここで無意識的という概念を持ち込み、解離している(はず)のABは実は力動的にはつながっていると言うことで、心は一つという精神分析的な基本概念を保っていることになる。