2014年8月15日金曜日

エナクトメントと解離 推敲 (1)

解離の概念と治療に関して、エナクトメントの概念との関連で論じたい。その際参考にするのが Donnel B. Stern, Ph.D.という分析家の論文 The Eye Sees Itself: Dissociation, Enactment, and the Achievement of Conflict ((2004). Contemporary Psychoanalysis, 40:197-237)である。これから彼の名前を「スターン」と日本語で表記するが、わが国にはすでに丸田先生、小此木先生の尽力により知られるようになったダニエル・スターンがいるので、混同してはならない。(ファーストネームのイニシャルをつけると、両方ともD.スターンとなってしまう)
 私がこれから論じるスターン(ドネル・スターン)は、精神分析の新しい流れの一つである関係性理論のホープの一人である。彼によれば、精神分析の目的は、洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatedness に代わってきたという。フロイト以来のこれまでの精神分析では、無意識の意識化、そのための解釈による介入一辺倒であったから、私はスターンのこのような主張に精神分析の新しい可能性を感じる。そしてそのスターンが最近頻繁に論じているのが解離の概念である。はたして分析理論の視点から彼が論じる解離とはどのようなものであり、そのような新たな治療可能性を指示してくれるのであろうか?

まず前提として、スターンはこう述べている。「最近の精神分析の流れの一つは、やはり逆転移の扱いや理解の仕方の再考ということである。」わかりやすく言えば、治療者はどうやって自分のことをわかるのだろうか、ということだそうだ。そしてそれは実は容易なことでではないとする。それは実は「眼は自分を見えるか」というテーマであるとして、これを副題にもしている。この問題についての意識を触発したのが、レベンソンの 1972年の“Fallacy of Understanding“という本であるという。ただしここではこの論文には触れないで置く。ちなみにこのレベンソンも関係精神分析の火付け役を果たした重要な精神分析家である。
 さてスターンによれば、最近の逆転移についての考え方は、二者心理学的になってきたという。すなわち患者と治療者の現在進行形なかかわりのあり方を重視するわけだ。そこでは患者の中で転移が、治療者の中で逆転移が、個別に生じているわけではない。それらはいわば連動して、同時に起きる傾向にある。つまりそれを、転移―逆転移という関係の中で起きてくる一種のパターンとして理解しなくてはならない。そして治療者はある患者さんが、他者と特定の関係性のパターンに陥りやすいという傾向について探っていくことになる。しかしそれはあくまでもその患者さんが「~という問題を持っている」というわけではないという断り書きとともにこの作業を進める。さもないと、患者さんという個別の人間が、そこに孤立した病理を抱えている、という理屈になってしまい、それを言ってしまうと一者心理学に陥ってしまうというわけである。
 ちなみにここの理屈が読者にとってあまり意味をなさないとしても、私としてはあまり責める気にはならない。私にとっても、これは一種の言葉のあやというニュアンスがあるのも確かである。それよりもスターンがこれから進めるであろう議論、すなわち逆転移を知る重要な手立てとしてエナクトメントがある、という主張がどのように展開されるのか、そしてそれが解離の議論とどう結びつくのかに関心を向けよう。