2014年8月24日日曜日

エナクトメントと解離 推敲 (10)

昨日テレビで見たBNCTウ素中性子捕捉療法) という治療法。なんとすばらしい・・・。数年後には本格的に実用化される可能性があるようだが、これがあったら救われたような固形癌の患者さんたちがたくさんいたことだろう。日本の研究者がこれを開発していることを誇りに思う。

エナクトメントにかかわる苦しみも、結局は自分が自分の体験や行動の主体となっていないという体験に関係している。
エナクトメントでは、それとは対照的に、体験はそれに影響を与えることができずに絶望的になることもあれば、ほかの人に押し付けられたという感覚を与えるようなものである。時にはそうとは気が付かずに起きてしまうのだ。それらの種類の体験のなかでも、特に強制されたという感覚は、エナクトメントではしばしば体験されることである。私たちは奴隷により、そのように生きることを強制されて made いると感じ、どうすることもできない。(訳注:この made は、解離や統合失調症に見られる作為体験 made experience のニュアンスを有する。)解離の場合には、自分の生を自分が十分に棲まわっているという感覚、ウィニコットが述べた真の自己の「本物である感覚」を持つことができないのだ。
 
私はこの論文を、「目はどうやって自分自身を見るか」という謎かけにより始めた。後に私はそれをより回答がしやすい形に変えた。そしてわかったのは、逆転移を知ることは不可能であるのは、私たちを専心さsinglemindedness という観点から見たときだけである。私たちの心が一つの状態しか取りえない時、自分自身を観察することは、心を捻じ曲げて不可能などこかから眺めるようなところがある。これが「ブートストラッピング(靴紐)問題」だ。
(訳注:bootstrap =自分自身で自分のことをやり遂げること)。葛藤を持てるようになると、私たちは心を膠着状態にしてしまっている一つの固執した考えにたいして、もう一つの選択肢を設けることが出来ることになる。私たちは複数の意識状態を作ることが出来るのだ。専心状態から脱するということはいくつもの内的な状態を持つ事が出来、一つの心がもう一つの心を、形而上学的な歪曲を経ることなく眺めることが出来るようになる。逆転移への気付きという、それ自体が不可能な問題は、葛藤を体験することにより先進さを超克することで解決するのだ(p. 230)。
これらの引用により、スターンの主張はほぼ尽くされたとみていい。しかし素朴な疑問は残る。古典的な精神分析との決定的な違いはどこなのだろうか? 
 例えば愛と憎しみという古典的な葛藤。愛する気持ちと憎らしい気持ちの両方を持っているのが葛藤。「愛してだけいる」とだけ思っていて、相手を苦しめるようなエナクト
メントを起こしているのが解離状態ということになる。しかし後者は、「憎しみを抑圧した状態」とどう違うのだろうか? 「抑圧の場合には、失策行為や症状として現れるはずだ」というのが答えだろうが、相手を傷つけるようなことを「誤って」言ってしまったという行為は、果たしてエナクトメントとどう違うのか? この問いに対する明白な答えはおそらくないのであろう。
最後に
このスターンの論文は、非常に散文的なものだが、その最終部分に、ジョンレノンの言葉が出てくる。「人生は、その計画を立てている最中に生じてくるもののことを言う。Life is what happens while you are making plans.事柄がまず最初に自分の身に起きる。反省は常に後から付いて回る。そしてその意味を理解する。それが人生というものだ。
 スターンの主張を以下のようにまとめられるだろうか?
私たちはある種の行動を起こした時に生じる心のざわめきをきっかけに、その行動を振り返り、そこにもう一つの心の可能性を知る。それが治療においても生じ、現実の世界においても生じるということだ。その行動をエナクトメントと呼び、もう一つの心を解離された心と呼ぶわけだ。そしてその解離された心とは、何か既にあってそこに眠っているものではなく、まだ象徴化されていない、すなわち言葉にすらなっていないようなものというわけだ。

解離についての議論の一環としてこのテーマを追って来たが、もちろん「解離性障害」における「解離」との違いは明らかである。解離性障害における「解離」とは、ある意味では象徴化されているものである。ただしそれはその主体Aにおいてではない。別の主体、主体Bにおいて、なのだ。それが主体Aに持ち込まれてそこで葛藤として成立することが精神分析の目標であるとしたら、「解離性障害」の治療目的にとっては、それはいわゆる「統合」の達成であり、遠い遠い目標ということになる。スターンたちの論じる解離は、だから緩やかな解離、そこで健忘障壁が起きるほどの深刻なものではなく、むしろ緩やかな解離と言うべきであろうか。