2014年8月23日土曜日

エナクトメントと解離 推敲 (9)

解離とその苦しみ
スターンが葛藤をある種の達成と考えるとき、解離の持つ病理性やそれに伴う苦痛についても考えている。
激しい心の痛みの最中も、葛藤が不在の場合がある。そしてその不在こそが痛みの原因であり、葛藤を作り出すことにより軽減するかもしれないのだ。言い換えるならば、反復強迫は必ずしも意識的な目的と無意識的な目的の間の葛藤の硬直したエナクトメントではなく、本来体験するべき葛藤が不在であることにより継続されているかも知れないのだ。逆説的に聞こえるかもしれないが解離した自己状態の場合は、葛藤を体験できるようになることが目標なのだ。(中略)意識的な葛藤は必要である。なぜならほかの誰かとの間に起きていることから十分に距離をとることで反省し、何が起きているかを「見る」ようになるためには、私たちはもう一つの視点を必要とするからだ。私たちはもうひとつの解釈(というよりはもうひとつの体験というべきか)を必要とし、その解釈は必然的に既にある解釈との間に葛藤をおこすのだ。解離について言えば、あるひとつの心の状態を見るためには、そのバックグラウンドを体験する必要があるというわけである(P. 228)。
ここで「反復強迫は葛藤の不在により維持される」というのは斬新でかつ挑発的な発想である。反復強迫は無意識的な葛藤が問題だ、と古典的な分析家は説いてきたのであるからだ。そしてスターンはこの反復強迫のことをエナクトメントと言い換えているのだろう。そしてそれが繰り返される限りは葛藤が体験されていないというわけである。否、エナクトメントであるという把握さえもできていない限り、それはエナクトメントとも言えないというわけか。ただの繰り返しという意味での反復強迫ともいえるのだろう。「宿題が終わったの?」がエナクトメントであると把握されることで、初めてそれが行動を変更する力を持つ、mutative であるということか。
 でもここで私は再び思うのである。葛藤の不在(スターン)ということと、葛藤が無意識的である(フロイト)ということは、そんなに違うことなのだろうか?同じ現象の別の見方ということはないのか?スターンはそんなに新しいことを言っているのだろうか?

ところで解離における苦痛をあえて表現するならば、それは自由や主体性の欠如である、というのがスターンの主張である。
内的な葛藤の創造は、主体性の感覚の創造でもある。葛藤関係にあるもうひとつの選択肢を欠いた願望は、強迫行為以外の何ものでもなく、強迫は自分自身の人生を選択しているという感覚を否定する。エナクトメントを脱構築することは、精神的な意味での奴隷となることの回避である。奴隷化を行う動機はしばしば他者を支配することだが、それは本人を縛ることには変わりない。全くの二次元的なエナクトメントの世界では、支配層が力を維持するかもしれないが、彼らも被支配層と同じくらいに縛られているのだ。
この意味で、私が描いているエナクトメント、つまり解離に基づいたエナクトメントは、ベンジャミンが言うところの反転可能(やる側―やられる側 doer-done to)な相補性 とおなじことである。
そしてそのことは結局精神分析の目的にもつながる。

患者も治療者もお互いを認識すること以上に自分自身を創造的に体験することはできない。うまくいった精神分析の結果は、自分の人生は自分自身のものであり、ほかならぬ自分自身が生きているのだという、確固たる、思考のない unthinking 確信を得ることである。 しばしば自分の人生は自分の心の想像したものだという感覚(味気ない用語を用いるならば、能動の感覚 sense of agency ということだが)は、葛藤に近づくことにより得られる。それは私たちが直面している問題に関する立場を選択する必要に迫られると、私たちは自分の手が土を耕しているという感覚を得るからである。

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