さて再固定化のプロセスには興味深い問題が潜んでいる。動物実験ではある記憶が十分に学習された後には、それを思い起こす際にタンパク質合成阻害剤のアニソマイシンを注入しても、もはやその記憶は障害されないというのだ。障害されやすいのはまだ十分に学習されていないものである。つまりたとえばある詩を完全に暗誦しつくしている場合は、それを再び声に出して朗読したからといって、その記憶が再編される可能性はないわけだ。そこで新たなタンパク質合成は行われないことになる。また想起の際に新しい情報が付け加わるような場合にも、アニソマイシンはその記憶自身を障害するという。
以上のことをどのように理解したらいいのだろうか?私の考えはこうだ。記憶といっても完全なものはない。その一部は多くの場合時間とともに徐々に失われていく。「消去」されていくのだ。するとあることを想起する際には、不完全になった記憶の部分を強化補強するためにシナプスが新たに再生、ないし新生されることになる。その可能性は二つあるという。一つはすでに出来ているシナプスが強化されること。もう一つはそれに参加している神経細胞の数がより多く動員されるということだ。(例の本Chapter 11 Memory Reconsolidation or Updating
Consolidation? Carlos J.
Rodriguez-Ortiz and Federico Bermúdez-Rattoni. In Neural
Plasticity and Memory: From Genes to Brain Imaging (Frontiers in Neuroscience)
CRCP ress, 2007より ← 買う必要なし。なぜかネットですべて読める。)いずれにせよ思い出すということは、その記憶のうち失われた部分を強化する、そのためにタンパク合成が行われるということを意味するが、そこに記憶の改変が同時に起きてもおかしくない。
たとえばかやぶき屋根の農家に年に一度避暑に出かけるとしよう。しっかり作られた家だが、一年のうちには修繕する必要が生じ、そのために新しい萱を用いたり、襖を張り替えたりすることになるだろう。それが新たなタンパク合成ということだ。
ここで完璧な記憶の例としては、一年に一度使う資料をコンピューターのハードディスクから呼び出すという例が考えられる。この場合はおそらく年度を書き換えるということさえしなければ全く同じ資料をそのまま用いることになる。しかし生身の人間にこのような現象は絶対に起きないのだ。とすれば記憶を想起するということは、多かれ少なかれかやぶき屋根の農家モデルに従うことになる。
ここで完璧な記憶の例としては、一年に一度使う資料をコンピューターのハードディスクから呼び出すという例が考えられる。この場合はおそらく年度を書き換えるということさえしなければ全く同じ資料をそのまま用いることになる。しかし生身の人間にこのような現象は絶対に起きないのだ。とすれば記憶を想起するということは、多かれ少なかれかやぶき屋根の農家モデルに従うことになる。
これは実に恐ろしいことを意味する。つまり最初からあいまいな記憶はそれが想起される際に、誰かから誤った情報を与えられることで、少しずつ形を変えていくということにならないか?つまり記憶は操作されてしまうことになる。本人が気が付かないうちに。しかし同時にこれは、固定されて何度もよみがえってくるような記憶を改変する可能性を秘めているということになりはしないか?そう、それが治療への応用可能性を示していることになるのだ。