2014年7月26日土曜日

トラウマ記憶と解離の治療(推敲)23


デブリーフィングの問題から学ぶこと―新しいトラウマ記憶と古いトラウマ記憶
このデブリーフィングの問題をもう少し臨床的に考え直してみよう。というのもCISDが有害であるという結論は、私たちの日常臨床的な発想とはかなり異なるからだ。もちろんこの話が、このブログですでに論じた、「いやなことがあったらすぐに話すことにより記憶が改編され、解毒されることがある」という話と矛盾していることは、賢明な読者ならすぐにお気づきであろう。そしてこのことがトラウマを扱う際の治療者に非常に大きなジレンマを生んでいるのは確かなことなのだ。なぜつらいことがあった時にすぐに話せば楽になる場合があるのに、グループでデブリーフィングをするのはよくないのか?
私の考えでは、デブリーフィングで外傷記憶が悪化するのは、おそらくごく一部の例であろうということである。その例では確かに「レコード盤のデコボコがさらに深まる」という事態が起きるのであろう。しかしそれ以外の例ではいい意味での記憶の改編が生じることが多いのだ。私の考えでは、デブリーフィングに関する教訓は、「トラウマの直後に体験を話すことを促すことで、その人の外傷的な記憶がより苦痛を伴わないものに改編される、と決めつけてはならない」ということでしかない。極論をするならば、トラウマの直後に気持ちを表現したい人を「ダメですよ、デプリーフィングになってしまいますから」と言って放置することの非倫理性もまた問われなくてはならないだろう。
デブリーフィングの問題が端的に教えてくれているのは、私たちはおそらくトラウマ記憶を、新鮮なそれと陳旧性のそれとに分けて考える必要がある、ということだ。確かにトラウマが生じて間もない記憶の扱いには気をつけなくてはならない。彼らに「詳細な描写を求めること」には慎重にならなくてはならない。しかし同じことをトラウマを受けて1年以上経った患者さんに当てはめるだろうか?それではそもそもエクスポージャー療法が成り立たないであろう。 
常識的に私たちが知っているのは、時間がたったトラウマは、それを語らせることでそれが深刻な形でよみがえると言うことは普通はない、と言うことだ。ここで「普通は」と断ったのは意味がないことではない。つらい体験を語ることは、その人の気持ちを暗くし、絶望的な気持ちをよみがえらせる。治療場面でそのような状況に遭遇するのは治療者にも胸の痛む体験だ。そのようなセッションのあと何時間かはそのような気持ちを引きずるのではないか、と懸念する。おそらくそのようなことも例外的には起きるだろう。端的に言って、昔の記憶をたずねることで患者さんにフラッシュバックが起きたとしたら、それは治療者としては避けるべき事態であった、不適切な介入だったという可能性もある。
 しかし通常は、その話題から離れることで患者さんの表情も戻っていく。時間が経った記憶は基本的にはその深刻さを悪化させることはないのだ。ただしその記憶が形成された直後は事情が違う。
 ではいつまでがその「直後」と言えるのだろうか?おそらく定説はないのであろう。可能性としてはとりあえず二つある。一つは数日間。この期間は海馬がLTP
 Long-term potentiation,長期増強)という状態を経て長期記憶を形成するまでの期間で、それ以降は海馬はそれを大脳皮質の各場所に手渡して自分を消去してしまう。つまりこの期間以内なら、記憶はまだ海馬にとどまっている状態である。海馬とは面白い器官で、脳においては例外的に細胞が常に再生している。数日間で記憶を残した鋳型自体が消えていくのだ。以前にレコード盤の比喩を用いたが、トラウマを受けた直後のレコード盤は海馬の歯状核という部分に相当するのである。ここのレコード盤は少し変っていて、それがレコード針でなぞられることで(つまり「詳細な描写を求めることで」)その刻印が深くなっていくという構造になるのだろう。そしてそれが深ければ深いほど、数日以内に皮質に手渡す際の記憶の鮮明さや強度も高まると言うわけである。

役者が台詞を覚える時は、数日間にわたって台本を読み、何度も繰り返すことで、その刻印を深くし、記憶を脳にしっかり叩き込むのである。