2014年7月12日土曜日

「恥と自己愛トラウマ」その後 (1)


「恥と自己愛トラウマ」(岩崎学術出版社、2014年)の出版後、「自己愛トラウマ」という表現がそれをきっかけに一気に流行ったという話は残念ながら聞かない。本来あまりセンセーショナルなテーマとは言えないであろうが、私は相変わらず続編の発表の可能性も見据えつつ、このテーマを追い続けている。
自己愛トラウマとは、自己愛が傷つけられることにより生じる心的なトラウマのことである。発達障害に関連した事件、いじめ、モンスター化現象など、様々な問題にこの自己愛トラウマが関連しているというのが本書の趣旨である。しかし改めて考え直すと、自己愛トラウマは、トラウマとは言っても、かなり身勝手なそれである可能性がある。本人の自意識が強く、人からバカにされはしないか、という恐れが大きいばかりに、普通の人だったら傷つかなくてもいいところで傷ついてしまう。しかし問題はそれが本人にとってはトラウマとして体験されるために、爆発的な力を生み、その反動は怒りとなって確実に「あいまいな加害者」に向かい、他者はその濡れ衣を着せられることが多い。加害者は実は被害者に反転したりする。実に複雑で厄介な人たちでもある。
私が本書で十分触れることが出来なかった問題が二つある。ひとつは自己愛トラウマにおいては、加害者と被害者はしばしば明確ではなく、時には反転さえするという現象である。それは「あいまいな加害者」という表現でのみ触れた問題である。加害者の存在はしばしばあいまいなだけでなく、明らかな形では存在せず、時には被害者にすらなるということである。
 本書でもふれた「浅草通り魔殺人事件」を考えてみよう。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」という当人の言い分である。この場合、犯人は「自己愛トラウマ」を受けたのだろう。そのトラウマを与えたのは短大生であり、当人はその限りにおいては被害者ということになる。しかしこの事件の最大の犠牲者、被害者はこの短大生であることは言うまでもない。それでは犯人の体験をトラウマと呼んではいけないのだろうか? 倫理的には「とんでもない、身勝手な話だ」ということになろう。でも心理学的はこれをトラウマと扱うことで見えてくることがある。それは通常の、一般人が理解できるような自己愛トラウマと同じようなインパクトを当人に与え、またそれが激しい攻撃性を周囲に向けさせたという事実である。この、倫理的な理解とは切り離されたトラウマ理論は、しかし一部の発達障害における心の働き方や、場合によっては反社会的な人々の心の働きにも及ぶ可能性がある。その意味ではこのテーマを扱うことは、何か危険領域に論を進めているような不安を感じさせる作業でもあった。