2014年7月13日日曜日

「恥と自己愛トラウマ」その後(2)

 本書でもう一つ充分に扱えなかったことのは、先に述べた厄介な人たち、「勝手に自己愛トラウマの犠牲者になってしまい、他人に迷惑をかけるような困った人」、すなわちおそらく一般的な意味での「自己愛パーソナリティ障害」に該当する人たちなのである。しかしこれでは少し長いので、「ナルな人たち」と呼ぶことにしよう。
考えてみると「ナルな人たち」はこの世のいたるところにあふれている。政治家、弁護士、会社社長、医者、教師・・・・一般に「先生」と呼ばれるような立場にある人たちの大半は「ナルな人たち」であり、周囲の言葉遣いや態度に極めて敏感である。年功による序列や身分の違いにうるさい日本社会では特にそのような人々がはびこっているよう出会う。ところがそれらの若いころをさかのぼってみると、案外協調性があり、少なくとも表面上は謙虚で配慮ある性格であったりする。人は地位や名誉を獲得すると、どうやってナルな人たち」に代わっていくのだろうか?彼らの若いころの特徴はあるのだろうか?しばらくはこちらのほうのテーマを追っているが、ある時この講演をしていて聴衆の方からの質問に答えているうちに一つのアイデアが浮かんだ。
ナルな人たちとは、おそらく幼小児より人により態度を変え、自分より強い立場の人間には媚を売り、弱い立場の人間には居丈高に振る舞うという習性を身に付けている人ではないか?思えば社会の中で自らの地位を築くには、強い人に嫌われないことは大切なことだ。他方自分より弱い立場の人にサービスをしたからといって直接得られる利得は少ないだろう。
では人により態度を変える人は、性格異常なのだろうか?そのような人は巷に大勢いる。というより人により態度を変えない人など、そもそも居るのだろうか? そんな人こそ聖人君主であり、めったに出会うことなどできないのではないだろうか?
しかし人により態度を変えることには、すでに自己愛が入り込んでいる。弱い立場の人に対して居丈高であろうということは、そこで自己愛的な満足体験を得ているということだ。しかしこのような傾向を持たない人などいるのであろうか?
一冊の本を書くということは気の遠くなる作業である。ただしそれに一定期間付き合うことでさらなるテーマが見えてくることがある。それはおそらく長編作を書き継ぐ作家の心理にも近いのかもしれない。私は長編作家ではないが、私の「書く」作業には似たような性質があるように感じることがある。