2014年6月30日月曜日

トラウマ記憶と解離の治療(推敲)1



トラウマ記憶をめぐる知見は、近年大きな進歩を遂げている。それにしたがってこれまでの常識も新しい理解にとってかわられようとしている。そしてそれに基づいた治療法が考案されつつある。
 1990年代までは、トラウマ記憶に関してはある常識が成立していた。それは「トラウマ記憶は一生消えない」というものである。私たちは一般に脳で生じたことは容易には変更の仕様がないという先入観を持っており、それは記憶についてもあてはまる。一般人の大多数が、記憶というのは一種の刻印であり、たとえて言えば磁気テープの上に記された一定のパターンのようなものであり、そこをなぞって再生させることが記憶を甦らせることだという考えを持っていた。 
 
たしかに記憶のかなりの部分は時間とともに徐々に薄れていく。「消去Extinction」という現象だ。嫌な出来事も心地よい出来事も、時間の経過とともに徐々に風化する。ところがトラウマ記憶は例外である。しっかり刻印されてしまい、それが証拠にフラッシュバックの形でかなりの詳細まで再生されてしまう。だからトラウマ記憶は厄介なのだ、と。
 このような考え方が徐々に変えられつつある。その発端となった米国マサチューセッツ総合病院のロジャー・ピットマン医師は、トラウマの体験を持った患者にある薬物を投与することで、そのトラウマ記憶が定着するのを抑制することができた、と発表した。2002年のことである。Roger K. Pitman, Kathy M. Sanders, Randall M. Zusman, Anna R. Healy, Farah Cheema, Natasha B. Lasko, Larry Cahill, and Scott P. Orr: Pilot Study of Secondary Prevention of Posttraumatic Stress Disorder with Propranolol .Biol.Psychiatry 2002:189-192.
ピットマン医師が使ったのは、日常的に当たり前のように使われている薬、いわゆるβ(ベータ)ブロッカーのひとつだ。高血圧や頻脈にとてもよく用いられる薬である。これをトラウマを経験した人に用いることで、その後のPTSDの発症を防ごう、という試みである。このβブロッカー使用には、次のような理屈がある。
 私たちの脳は、感情的な高まりを伴うような体験はそれだけ強く覚えこむという性質がある。入試の結果が張り出されるのを、掲示板の前でドキドキしながら待った時のことを忘れた人はあまりいないのではないか?その際はいわゆるストレスホルモンといわれるアドレナリン、ノルエピネフリンなどが血中に放出されている。すると直前にあった出来事をしっかり記憶するようにできている。脳の仕組みとは実にうまく出来ているのだ。しかしそれが起きすぎてしまったのがトラウマ記憶ということになる。するとトラウマが起きた直後にこれらのストレスホルモンを抑える薬であるβブロッカー、例えばインデラールを投与すると、それが「記憶の過剰固定」を抑えるというわけである。この実験はそれまで臨床家たちが持っていた常識、つまり過去のトラウマ記憶は消すことができないという考えを大きく変えることができる可能性を示唆したことになるのである。
ちなみにピットマン先生とそのグループは10年後にはるかに大量のインデラールを用いてこの研究を追試したが、あまりめぼしい結果は得られなかったことが報告されている(Elizabeth A. Hoge1, John J. Worthington1, John T. Nagurney2, Yuchiao Chang3, Elaine B. Kay1, Christine M.

 Feterowski1, Anna R. Katzman1, Jared M. Goetz1, Maria L. Rosasco1,Natasha B. Lasko1, Randall M. Zusman3, Mark H. Pollack1, Scott. P. Orr1,4 and Roger K. Pitman1Effect of Acute Posttrauma Propranolol on PTSD Outcome and Physiological Responses During Script-Driven Imagery CNS Neuroscience & Therapeutics Volume 18, Issue 1, pages 21–27, January 2012