この現象について、コフート理論に親和性のあるフォサーギ先生は、彼の理論を引いて説明する。典型的には、分析家への不信は前景にあるものだ。しかし背景にあるのは治療者に対する理想化なのである。理想化された、あるいは幼いころに追及していた両親像を治療者が備えているからこそ、治療は継続されているのだという。ところでフォサーギさんの話を聞いたある分析家は、夢の中で自分の中の羨望への自覚と葛藤を起こしているのではないか?」と問うたという。雰囲気からはとてもクライニアンっぽいわけだが、これについてフォサーギ先生は言う。「羨望との葛藤、というよりは、夢自身はとても心地よく、自分の理想化された自己対象との体験に対応したものであった」。そしてそこから彼の理論が続く。「夢とは心の構造を維持し、修正するのである。起きているときの心の働きと同様。」やはりこの臨床例を読んだ後も、フォサーギ先生の主張には少し疑問が残る。まず彼を理想化したような夢の内容は、「羨望との葛藤ではない」としても、それが「夢とは心の構造を維持し、修正するのである。」ことの傍証になるのか。だって夢の内容が「羨望との葛藤」となることもある場合だってあるし、そうなると夢が「維持し修正する」ことにはつながらないということになろう。
ましてや起きているときと同様、というのもわからない。起きているときの思考は場合によっては苦痛で葛藤を伴うこともある。それを「維持し修正する」と言ってしまうところで、彼の主張のcredibility が損なわれる気がする。せっかく「維持し、修正する」のが夢の特徴なのか、と納得しかかったときに、「起きているときの思考と同様」と言われることで彼の主張の真意が分からなくなってしまう。
私の考える夢とは、やはりこのような一般化ができないような不思議な現象の混淆である。そこでは様々な思考内容の離合集散が起きている。時には構成的で、時には破壊し、作り直す。そしてそれはおそらく日中の体験にある程度関係しているのだろう。日中の現実との体験で生じた様々な体験がパズルのピースのように組み合わさっていく。部分的に、時には整合性を伴わず。箱の中にさまざまな形をした小石を詰め込んだとする。それを細かく揺すってしばらくたつと、小石の量が小さくなるだろう。凸凹がうまく組み合っていくつかのまとまりを作ったりするだろう。私にとってはこの比喩が夢の思考のニュアンスを伝えている。分子のカオスの中で様々な分子同士が出会って、ある者はアミノ酸を偶然構成していくというオパーリンの主張のように。