そのうち発売になる本のタイトルとカバーを独断で考えてみた。どうだろう? ⇒
ちなみに「自己愛トラウマ」という言葉は誰も使っておらず、検索すると、このブログ自身が出てくる。
夢について患者本人に考えを聞く、という方針は、私たちにとってはある意味で当たり前の話でもある。私も同じようにする。ただフロイトの時代はこれが当たり前でなかった時代なのかもしれない。これは例えば患者がひとしきり自由連想を語ったあとで「ではいまの自由連想についての自由連想をしてみてください。」と指示するようなものだ。自由連想に患者の無意識が現れ、それを高みに立つ分析家が特権的に見て取ることができたとしたら、それを解釈として伝えることが治療であるということになる。「自由連想についての自由連想」とは考えてみれば「自由連想」そのものにほかならないのであり、患者がその無意識内容に気がつかない限りは一種の堂々巡り、ということになるだろう。そしてこの理論を当てはめるならば、夢について自由連想をしてください、という問いについてもあまり意味がなくなってくることになる。「(夢の中に出てきた)猫は私のことだと思います」という連想も、それ自身が夢の真の意味、例えば「猫は母親である」を防衛した結果であるとしたら、連想を聞く意味は半減するだろう。聴けば聴くほどタマネギの皮が厚くなっていく、という理屈だ。
その意味では「夢の内容についてどう思いますか?」という問いは、実はフロイト的な考え方、すなわち夢は防衛であったり、健在内容と潜在内容に分かれていたりする、という考え方から遠ざかった立場から出てくる、と言っていいのだろう。
これをすることは、夢の内容を覚醒後に再構成するという傾向に対抗するという。ただし夢の中での体験は、不思議なほどにリアリティを持ち、受身的に起きることを受け入れるという姿勢であることに気がつく。「なんであんなことを不思議とも思わずにしたのだろう?」という思考は覚醒した後に出てくるものである。夢の中では驚くべきことが起き、しかしそれを淡々と批判なく受け入れるという傾向にある。後にも出てくるが、私はホブソンの活性化-合成理論というのが好きだが、夢は神経伝達物質の中でもアセチルコリンが優勢で、それと夢の諸性質(非・批判的な点も含めて)が関係していると理解している。とすると淡々と受け止めるのは夢の持つ生物学的な性質ということにもなるのだろう。