2014年4月24日木曜日

フォサーギ先生の夢理論(8)

最後にフォサーギ先生は夢を扱う6つのガイドラインについて書いてある。ありがたや。
1.             夢が統合的で新生的synthetic な性質である以上、治療者の仕事は夢の内容についての患者の連想を聞くことで、その内容の意味を明らかにすることだ。

これってどうかな。私からの早速コメントだ。これって結局「夢に出てきたこの猫は、~を意味している」というふうに謎解きをしていくことになるのだろう。でもそれは普通の夢の分析とあまり変わらない。現代の精神療法において、夢が報告された場合には早速それの解釈に入るという治療者はあまりいないのではないか。まずはそれについての患者の連想を重視するだろう。すると患者が「この猫は、私の分身のような気がします」というか「肌触りは私の母親を思い出させます」かもしれない。あるいは「まさしくうちのタマです!」かもしれない。(ところでここで例に猫を出したのは、かの河合隼雄先生が「猫は人それぞれ何を意味するのか違う」とかいうことをおっしゃったからであり、ワンちゃんであっても構わない。)すると患者の連想を手がかりに夢の意味を解き明かそうという姿勢はフロイトの「夢判断」とあまり変わらない。私はそれが行けないというのではないが、自分の夢の内容についての患者さんの連想さえも、蓋然的なものであるという点を一言指摘しておきたいのだ。
 「私の分身です。」という患者さんの連想だって、既に夢を見ている自分の状態とは推移した自分が持つ連想であり、それが「正解」であるという保証は全然ない。ただしもちろん「私の分身です」という連想は尊重すべきひとつの可能な解釈の方法である。
 いや、今の言い方も正しくない。夢は本来解釈不可能かもしれない。それが私の偽らざる立場である。様々な分子のカオスが高温で攪拌されてアミノ酸Aが生成された時、そこにどれほどの必然性があったかはわからない。別の状況ではBCが生成されたかもしれないのだ。重要なのは、そのAB、ないしはCがどのような経過をたどって生命の誕生に結びつくか(否か)ということなのだ。「猫は自分の分身です」といった患者さんは、夢の謎解きや解釈をしたということでは必ずしもなく、新たな連想をそこで生み出した、ということそのものに意味があるのである。私だったら治療者に問われてかなり適当に「私の分身かな」と思いつきを言ってしまうかもしれない。そしてそれを字義通りに取られても・・・と思うかもしれないのだ。