ウン、面白くなってきたぞ。彼は夢の主要な理論は、結局フロイトの潜在的、顕在的内容という考えを踏襲していないという。フロムの理論も夢は象徴的ではあってもdisguise 変装ではないという。フレンチとフロム(問題解決の努力)も、フェアバーン(対象関係論的理解)も、コフート(自己調節)もエリクソン(個別的な自我モード)も、いずれもそうである。そこで潜在的、顕在的、という言い方はやめて、すんなりと「夢内容dream content」と呼ぶことをフォサーギ先生は提案する。
こうして夢は心をより直接的に表しているという彼の主張が展開されるのであるが、だからと言って夢の内容の持つ意味は明らかである、と入っていないとくぎを刺す。夢は分かりにくいのだ。そしてその理由を3つ上げている。1.うまく思い出せないから。2.夢のプロセス自体の不明確さ、そして比喩的な性質であるという。ここら辺、私は違う考えを持つ。夢がわからないのは、そこにランダム性が備わっているからだ。一部は整合的で、別の部分は非整合的、でたらめ。小石を入れた箱をゆすっていると、ところどころに小石が組み合わさった石垣のような構造が出来てもおかしくない。でも別の部分はバラバラだろう。それと同じなのだ。
どこかでそろばん作りのビデオを見たことがある。立体菱形のそろばんの玉(というのかな?)を箱にバラバラに入れて、あとは串(そろばんの玉を貫く細い棒)が並んでいるそろばんの骨組みを差し込んで中を泳がせるだけ。串の先から順番に玉が入っていく。これが実にうまくいくのだ。しばらくするとそれぞれの串にたまが詰まっていく。玉がバラバラに入っている箱のカオスから構造が出来上がっていくのだ。人間の夢の構造も似ているのかもしれない。